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佐久地方の古代遺産 ―奈良・平安―

奈良時代・平安時代とは

710年から794年までの約80年間を奈良時代、その後1192年までの約400年間を平安時代といいます。
奈良時代は、中国で発達した律令を基に中央政府が政治を行う律令国家体制で、公地公民制を敷き、国家が個人を直接支配していました。人々は戸籍に基づいて口分田を与えられ、税や兵役、土木工事などを負担させられていましたが、8世紀末頃から重税に耐えられない農民が増加。平安時代には律令国家の根幹がゆるぎ始め、10世紀には土地課税を基本とする新しい政策へと転換していきました。

 

奈良時代の竪穴住居と掘立柱建物を復元 立科町大庭遺跡佐久郡の誕生

中央には2官8省の行政機関が置かれ、地方は国・郡・郷で編成されました。長野県域一帯は「信濃国」と呼ばれるようになり、高井・水内(みのち)・埴科(はにしな)・更科(さらしな)・小県(ちいさがた)・佐久・筑摩(ちくま)・安曇・諏方・伊那の10郡が置かれました。長野県内の郡の大まかな枠組みは中世・近世にも引き継がれ、現在まで続いています。
この時代の古い文献や土器に描かれた文字などから、古代の佐久郡には美理(みとり)・大村・大井・刑部(おさかべ)・青沼・茂理(もたり)・小沼・余戸(あまるべ)という8つの郷(行政区)が存在していたことも分かっています。
佐久地域の発掘調査で多く発見されるのは、縄文時代と並び、奈良・平安の遺跡です。
土器片に記された文字奈良時代の村落は、佐久市長土呂・岩村田から西屋敷、小諸市御影新田、御代田町小田井付近に集中しています。昭和59年に発掘調査が始まった鋳師屋(いもじや)遺跡群は佐久市西屋敷・小諸市御影新田・御代田町小田井の3市町にまたがる広大な遺跡群で、357軒の竪穴住居跡と434棟の掘立柱(ほったてばしら)建物跡が発見されました。また、鋳師屋遺跡群の南に位置する聖原遺跡からは竪穴住居跡818軒、掘立柱建物跡869棟という大集落が姿を現しました。佐久市岩村田の栗毛坂遺跡群、長土呂の芝宮遺跡群、小諸市の中原遺跡群などからも大規模集落の存在が明らかとなっており、佐久平北部が古代佐久の中枢地域であったと考えられています。
しかし残念なことに、古代の役所「佐久郡衙(ぐんが)」がどこにあったのかはいまだ解明されていません。役人や有力者の存在を示す証拠品は多数出土しているので、今後の発掘・研究が期待されます。

 

平安時代の馬の骨 鋳師屋遺跡群野火付遺跡佐久郡の3つの牧

古墳時代に大陸から伝わった馬は、奈良時代に入ると軍事用や交通用としてその重要性がさらに高まりました。国家は信濃・甲斐・武蔵・上野に朝廷直営の御牧(みまき)を置き、馬の飼育と管理に力を注ぎました。馬の飼育に適した高原の信濃には16の御牧があり、佐久郡には望月牧・塩野牧・長倉牧が置かれました。
中でも、小諸市・東御市・佐久市にまたがる御牧ヶ原台地にある望月牧は、名馬の産地として全国的に有名でした。
昭和59年、鋳師屋遺跡群の野火付遺跡で平安時代の埋葬馬が発見されました。馬は丁寧に葬られており、御牧塩野牧の馬ではなかったかとも推定されています。

 

古代社会の終焉

律令体制の崩壊は遺跡からも窺い知ることができます。佐久平北部に繁栄した大集落遺跡群では10世紀から住居数が急激に減少。一方で9世紀後半からは、それまで集落がなかった山間部にも小さなムラが作られるなどして、こうした現象は信濃全体で見られました。集落の小型化とともに竪穴住居跡の規模も小さくなり、11世紀を境に竪穴住居跡は姿を消しました。1108年の浅間山大噴火とともに佐久において古代社会は終わりを告げ、武士が台頭する新しい時代「中世」へと移行していきました。

 

 

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