ぷらざINFO/歴史探訪

佐久地方の古代遺産 ―古墳時代―

古墳時代とは

3世紀中頃から8世紀までの約450年間を古墳時代と呼びます。東北から九州まで全国に数多く造られた古墳は、ヤマト政権の成長や支配、時代の社会構造や文化を象徴する存在となっています。ヤマト政権は倭の統一政権として勢力を拡大し、古墳は身分階層を表すものでした。全長486mにわたる日本最大の前方後円墳「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」が造られたのもこの時代です。
しかし、佐久地方には巨大古墳が存在していないことから、絶対的支配者は不在と考えられます。この時代には、その後地域を支える産業としての「馬飼い」が始まったようです。

 

古墳時代の始まりと人口減少

3世紀後半になると、稲作に適した岩村田や長土呂のムラは姿を消し、千曲川や湯川など河川脇にムラが作られるようになりました。花粉分析から、縄文後半に寒冷化した気候は弥生中期から温暖化、その後再び気温が下がり、古墳時代前期は寒冷気候であったことが分かっています。気候の変化が高冷地の稲作に深刻な影響をもたらし、人口の減少や住居規模の縮小につながったと考えられています。

 

弥生ー古墳時代をつなぐ墳墓

佐久市根岸の山麓部で、刀の破片が出た二つの塚がありました。破片は今までに見たことのない両刃のある鉄片で、きわめて古い特徴を示していたため、その位置づけに注目が集まりました。そして昭和61年の発掘調査の結果、弥生時代末から古墳時代初めにかけてのとても古いもので、両時代をつなぐ貴重な墓と確認されました。「瀧の峯1号墳」「瀧の峯2号墳」と命名されたこの墓からは、人の歯が発見され、埋葬された人物のひとりが、女性であったことが分かりました。この地域を治めた有力者だったのでしょうか。

 

古墳時代の住居 市道遺跡カマドの登場

縄文時代から住居内には「炉」と呼ばれる火床がありましたが、古墳時代中頃になると、住居内に「カマド」が朝鮮半島から日本に伝わります。カマドは食物を加熱する調理施設で、炉に比べると熱効率が高く、調理時間の短縮や、蒸すなどの調理方法の変化をもたらしました。また、炉は家の中央にあったため利用スペースが限定されましたが、カマドを壁際に置くことで居住空間を有効に使えるようにもなりました。

 

 

佐久地方最大の古墳三河田大塚の石室横穴式石室

佐久地方には500基以上の古墳が確認されていますが、その9割が6世紀以降の後期に造られたものです。佐久地方の後期古墳の特徴は、小型の円墳で、遺体を納める横穴式石室が構築され、追葬を行うことが可能でした。横穴式石室は「羨道(せんどう)」という通路と「玄室」と呼ばれる遺体を葬る場所からなっています。追葬を行う際には、先に葬られた遺体を目にすることもあったのではないでしょうか。

 

 

佐久地方に根付いた「馬飼い」

佐久地方の古墳の広がりを見てみると、旧望月・旧浅科・岩村田・小諸・御代田に密集しており、この地域の古墳からは馬具が多く出土しています。このことから、佐久地方で古墳を築くことができた人の多くは「馬飼い」に携わる人だったとも考えられています。
大陸から伝わるまで、日本に馬はいませんでした。古墳時代に馬が登場して以降、権力者にとって馬はとても重要で、この時代も佐久地方とヤマト政権は馬を通じて太く結び付いていたと推測できます。

 

飾り馬の埴輪 女性の埴輪北西ノ久保古墳の埴輪

北西ノ久保古墳群にある6世紀後半の築造と見られる古墳から、長野県では珍しい形象埴輪が破片の状態で出土しました。丹念な接合復元作業の結果、家・太刀・盾・巫女・武人・農夫・飾り馬・鹿・鳥などの埴輪が姿を現し、当時の衣食住や文化などを窺い知ることができる貴重な資料となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。