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佐久地方の古代遺産 ―縄文時代〈前期・中期〉―

定住のはじまり‒前期‒

縄文時代前期の6000年前頃は、現在よりだいぶ温暖な気候で、文化も大きく進展しました。人々はそれまでの移動生活からムラを築いて定住するようになり、佐久地域でも、御代田町の塚つかだ田遺跡や下しもみどう弥堂遺跡から最初の定住のムラが発見されています。このころの土器は、底の尖った尖せんてい底土器で、置くことができないため、地面に埋め込んで使われていたようです。
前期中頃から後半には、さらに定住のムラが発展をみせます。小海町の中なかはら原遺跡では、100mほどの空間の中に15軒の住居が環状に建ち並び、その内側に200近い墓らしき穴が発見されています。家と墓地が同じ敷地の中に取り込まれたムラです。ここからは、イノシシのつぶれた鼻と尖った目を付けた「獣面把手(じゅうめんとって)付土器」が大量に出土しています。イノシシはシカとならんで縄文人の2大食料であり、縄文人にとって欠かせない存在であったことをこの土器は象徴しています。

大深山(おおみやま)の大集落跡 ‒中期‒

昭和28年、川上村大深山遺跡で、村人自らの手による発掘調査が始まりました。大深山遺跡は、標高が1300mあり、全国で最も高い場所にある縄文中期のムラで、51軒の竪穴式住居跡が見つかりました。なぜこのような高冷地にムラが作られたのか。考古学上の謎のひとつです。大量の土器とともに人間の顔を模した神秘的な人面香炉形土器が発見されました。この高冷地の縄文のムラは、昭和41年には国指定史跡となりました。現在、その出土品は川上村文化センターに常設展示されています。

たくさんのムラが作られた中期

浅間山の南、標高800m付近には湧水が散在し、1991年からの発掘調査では数多くの縄文遺跡が発見されました。
御代田町の川原田(かわらだ)遺跡からは、メガネ状の突起と曲線で飾られた「焼町(やけまち)土器」が出土し、4500年前という年代測定の結果が出ました。川原田遺跡の焼町土器は、そのユニークな造形美と浅間山麓に花開いた縄文文化を象徴する存在として、平成11年に国重要文化財に指定され、現在浅間縄文ミュージアムに常設展示されています。
湯川水系の中核的なムラであった御代田町宮平(みやだいら)遺跡では、大型住居や「あくびちゃん」の愛称がついた人面香炉形土器が発見されました。ランプと見られるこの香炉形土器は、大深山のものと並ぶ逸品です。
74軒の中期住居跡と多量の土器が出土した佐久市寄山(よりやま)遺跡、豊富な遺物の発見が続く佐久穂町崎田原(さきたはら)遺跡、様々な地域の土器が見られる北相木村坂上(さかがみ)遺跡など、他の地域とは異なる個性を持った中期縄文遺跡が佐久地域には溢れています。

縄文人の祈りの造形 石棒

縄文時代の遺跡には、人々の信仰を表すものが残されています。佐久穂町北沢遺跡の石棒もその一つです。男性のシンボルをかたどった巨大な石棒は、その作りや形状から縄文中期のものと推測され、生殖や狩猟など男性に関わる祭祀に使われていたと考えられます。長さ223㎝という巨大さは日本最大です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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