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名所・旧跡を訪ねて ― 龍岡城 ―

日本に二つしかない星型稜堡(りょうほ)のひとつ「龍岡城」。築城を手掛けた松平乗謨(のりかた) の人物像とともに紹介します。

龍岡城の誕生物語

龍岡城は、日本に二つしかない五芒星型の西洋式城郭のひとつで、函館の五稜郭と並んで「龍岡城五稜郭」と呼ばれています。
信濃国と三河国に領地を持つ松平乗謨は、幕末の参勤交代制度の緩和を機に、江戸の家族や多くの家臣を養うため、本拠地を奥殿藩(現在の愛知県岡崎市)から田野口藩に移しました。青年時代に積極的に西洋学を学んだ乗謨は、フランスのボーバン城をモデルに、元治元年(1864)龍岡城の建設を開始。奥殿藩は譜代大名でしたが、陣屋格で城を持つ資格がなかったため、城内に天守閣などはなく、内郭の中央に藩主宅と政庁を設ける形で慶応3年(1867)に築城となりました。慶応4年には藩名を田野口藩から龍岡藩に改名。しかし、その後の明治維新で政府が全国の城郭取り壊しを命じたため、明治4年(1871)龍岡城もそのほとんどが取り壊されてしまいました。御殿の一部である御台所(おだいどころ)だけは、学校としての使用申請が認められたため、建物が残されました。現在は、城郭跡に田口小学校が建ち、御台所は校庭の隅に移転しました。また、大広間が佐久市落合の時宗寺本堂に、東通用門が佐久市野沢の成田山薬師寺の門に、移築建造物として残されています。

「日赤の母」としても知られる松平乗謨

松平乗謨は、天保10年(1839)11月13日、三河奥殿藩第七代藩主・松平乗利の長男として生まれ、嘉永5年(1852)に家督を継いで第八代藩主となりました。幕政では老中格や陸軍総裁を務めましたが、慶応4年(1868)に陸軍総裁・老中格を辞任。姓も大給(おぎゅう)と改姓しました。明治維新後の明治2年(1869)には藩籍奉還により龍岡藩知事となり、名前も大給恒(おぎゅうゆずる)に改名しました。その後は、佐賀藩の佐野常民とともに博愛社(日本赤十字社の前身)の設立(明治10年)と育成に尽力するとともに、国際的には赤十字条約に加盟するよう政府に働きかけ、明治19年ジュネーブ条約に調印しました。明治20年博愛社は日本赤十字社に改称。さまざまな活動の功績に対し、佐野は「日赤の父」、大給は「日赤の母」と呼ばれています。
幕末から明治を生きた松平乗謨は、明治43年(1910)72歳でその生涯に幕を閉じました。

 

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