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名所・旧跡を訪ねて ― 五郎兵衛用水 ―

江戸時代の初めに、市川五郎兵衛が私財を投じて引いた五郎兵衛用水。美味しいお米を育む礎となった用水路開削の歴史をご紹介します。

武士からの転身

市川五郎兵衛真親は上野国甘楽郡羽沢村(現在の群馬県甘楽郡南牧村羽沢)に生まれました。当時の市川家は甲斐国武田家に仕える武士でしたが、五郎兵衛が幼い頃に武田家が滅び、徳川家康から家来になるように誘われていました。しかし、市川家はその誘いを断り、文禄2年(1593)に家康から「家康の領地内を自由に鉱山開発・新田開発してよい」という開発許可朱印状を得ました。武士を捨て、開発事業の道を選んだ市川家は、砥沢村(現在の南牧村砥沢)で砥石山の鉱山開発を行い、佐久地域で新田開発を始めました。

五郎兵衛用水を引く

佐久を訪れた市川五郎兵衛は、まず三河田新田、市村新田を開発し、ついで当時この地域を治めていた小諸藩から寛永3年(1626)に矢嶋原(現在の五郎兵衛新田)の開発許可を得て、本格的な工事を開始しました。当時の矢嶋原は草原で、水田に必要な用水がありませんでした。「ここに用水を引けば、すばらしい水田地帯を作ることができる」と考えた五郎兵衛は、まず水源探しから始めました。3年後、蓼科山(2530m)の山中に湧き水を見つけた五郎兵衛は、岩下川(現在の細小路川)に水を落とし、湯沢川との合流点でせき止めて取水し、そこから山に沿って水路を築き、矢嶋原まで用水を引きました。山間部の用水路は「岩間せぎ」、平坦部の用水路は「土間せぎ」と呼ばれ、土間せぎには用水路の高さを維持するために盛り土をした「つきせぎ」が約1㎞に渡り続いている箇所もありました。全長約20㎞の五郎兵衛用水は、当時の高度な土木技術を駆使し、4〜5年かけて、寛永7、8年頃に完成しました。

人々の努力で守り継がれた用水路

山を抜け、沢を渡る用水路は、風雨で破損することも多く、毎年改修に多大な費用と労力を費やさなければなりませんでした。そうした努力は、江戸時代だけでなく、明治・大正・昭和まで続けられ、昭和30 年代半ばから10年かけて行われた大改修により、近代的な用水路に生まれ変わりました。
五郎兵衛用水により矢嶋原には広大な新田ができ、五郎兵衛新田村と呼ばれるようになりました。村には寛文11年(1671)73軒の家があり、享保5年(1720)には126軒に増えました。明治初頭にはさらに軒数が増加し、700〜800人の人々が暮らすようになりました。そして現在、五郎兵衛用水は浅科だけでなく、広く周辺地域を潤す大切な用水として利用されています。

 

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