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名所・旧跡を訪ねて ― 駒の里・望月 ―

平安時代に朝廷直轄の牧場があった歴史を持つ駒の里・望月。姫と駒の悲恋伝説や現代に受け継がれるイベントも合わせて紹介します。

信濃国最大規模の望月牧

平安時代中期に編纂(へんさん)された法令集『延喜式(えんぎしき)』によると、古代日本には天皇の勅旨(ちょくし)により開発された牧場「勅旨牧(=御牧)」が、信濃・甲斐・武蔵・上野の4国にありました。信濃に16牧、甲斐に3牧、武蔵に4牧、上野に9牧あり、中でも望月牧は信濃最大規模を誇る全国でも屈指の名馬の産地でした。
毎年8月に、勅旨牧から貢進された馬を天皇の御前に披露した後に一部を皇族や公卿(くげ)に下賜(かし)し、残りを馬寮(めりょう)や近衛府(このえふ)に分配する宮中行事「駒牽(こまひき)」が行われていましたが、旧暦8月15日に駒牽された馬は、満月を意味する「望月の駒」と呼ばれました。万葉の歌人・紀貫之が「逢坂(あふさか)の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」と歌を詠むなど、その名は広く知られていました。勅旨牧には国ごとに牧監(もくげん)が設置され、信濃御牧の牧監は滋野氏であったと伝えられています。また、信濃16牧の筆頭「望月の牧」を支配した一族には望月の姓が与えられました。望月牧は御牧ケ原台地周辺にあり、現在も野馬除けの土手跡が所々に残っています。

高度な技術に支えられた望月牧

700年頃から日本には、新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)から高度な技術や文化を持つ多くの帰化人が渡来し、馬の飼育や技術の指導をしていました。望月牧にも高句麗人が暮らし、飼育指導を行っていたため、駒形神社や高良(こうらい)社など、「こま」や「こうらい」の名に由来した神社や地名が残っています。

「望月の駒」伝説

その昔、名馬の産地として名高い望月牧のある館に女の子が生まれました。同じ日に月毛の駒(=馬)も生まれたため、喜んだ主人は娘に「生駒(いこま)姫」と名づけました。姫は美しく、駒はたくましく育ち、姫と駒の噂は四方に広がりました。姫が13歳を迎えたある日、姫の美しさを耳にした帝(みかど)からお召しがありました。「わが姫に帝のお召しがあり、わが牧も栄えるだろう」と喜びにわく主人とは裏腹に、駒は元気がなくなりました。心配した主人が行者に尋ねたところ「駒は生駒姫に恋している」というのです。困った主人は駒に、「鐘が四つ(十時)から九つ(十二時)を打つまでに領内を三周できれば姫を与える」という難題を出しました。駒は勇み立ち、矢のように領内を廻りました。駒は九つの鐘までにまだ間があるというところで三周目を終えようとしていましたが、突然まだ鳴るはずのない鐘の音が響き渡りました。それを聞いた駒は胸が張り裂け、まっさかさまに谷底へ落ちていってしまいました。主人は「これで姫も都へ上がれる」と安堵しましたが、駒の死を知った姫は都へは上がらず、髪を切り尼になってしまいました。

望月駒の里草競馬大会

毎年11月3日に望月総合グラウンドで「望月駒の里草競馬大会」が開催されます。県内外からサラブレッドや農耕馬、ポニーなどが出場し、速さや技術を競い合う白熱したレースが繰り広げられます。草競馬大会は昭和中頃まで行われ、約40年前に一時中断しましたが、「望月駒の里愛馬会」が結成され、1989年に復活となりました。望月には馬事公苑もあり、誰でも気軽に馬との触れ合いを楽しむことができます。

 

 

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