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名所・旧跡を訪ねて ― 旧中込学校 ―

「ギヤマン学校」「太鼓楼」とも呼ばれた旧中込学校は、現存する日本最古の擬洋風建築校舎の一つです。工事費の多くが村民の寄付でまかなわれた建物には、教育に情熱を注いだ先人たちの誇りがあふれています。

近代教育制度のはじまり

明治4年(1871)の廃藩置県後、明治政府は教育のための行政機構として同年7月に文部省を設置しました。文部省は全国の学校を統括するだけでなく、積極的に国民を教育する責任を担い、江戸時代からの諸学校を基盤に欧米諸国の教育制度を参考にしながら、学校教育制度の創設を始めました。そして明治5年8月3日、日本で初めて学校制度を定めた教育法令「学制」を公布しました。
「学制」における学校制度の体系は、小学、中学、大学の3段階が基本となり、すべての者が入学しなければならない学校と位置付けられました。中学は、小学を修了した者の中から選ばれた生徒が入学できる学校、大学は中学を修了した者の中から選ばれた生徒が入学できる学校と定められました。また、全国を8つの大学区に分け、1大学区を32の中学区に、1中学区を210の小学区に分け、全国に53760の小学校を設けることを定めました。小学校の開設は急速に進められ、3〜4年の間に26000ほどの小学校が設置されました。しかし、明治12年の教育令公布により「学制」は廃止。結果的に学区制による学校の開設は一部の小学校設置のみで終わりましたが、小学校設立に携わった地元住民の努力や経済的支援は大きな業績として後世に残りました。

八角塔が印象的な擬洋風校舎

明治6年、佐久郡下中込村、今井村、三河田村の組合立小学校として下中込村の小林寺に成知学校(第6大学区第17中学区第7番区の小学校)が設置されました。授業課程は上等科4年、下等科4年の8年制でしたが、当時佐久地方で上等科が置かれた学校は少なく、他に尚友学校(田口)、明倫学校(小諸)、志仁学校(志賀)だけでした。明治8年には新校舎建設が決まり、外国で建築技術を学んだ下中込村出身の市川代治郎が建築設計の指揮をとりました。所々に異国情緒を漂わせる洋風校舎は、八角塔に太鼓が吊るしてあることから「太鼓楼」、すべての窓にガラスがはめられていた珍しさから「ギヤマン学校」とも呼ばれました。 
明治9年には名称を「中込学校」と改め、明治21年には「中込尋常小学校」、30年には高等科を併設して「中込尋常高等小学校」と改称しました。その後、生徒数に対して校舎が手狭となり、大正8年新校舎が建てられ小学校は移転。洋風校舎は町役場として使用されることになりました。昭和36年からは市役所分室として使用され、昭和41年1月に長野県宝、昭和44年3月に国の重要文化財、同年4月に国史跡に指定されました。

 

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