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(2010年12月12日)
日本に二つしかない星型稜堡(りょうほ)のひとつ「龍岡城」。築城を手掛けた松平乗謨(のりかた) の人物像とともに紹介します。
龍岡城は、日本に二つしかない五芒星型の西洋式城郭のひとつで、函館の五稜郭と並んで「龍岡城五稜郭」と呼ばれています。信濃国と三河国に領地を持つ松平乗謨は、幕末の参勤交代制度の緩和を機に、江戸の家族や多くの家臣を養うため、本拠地を奥殿藩(現在の愛知県岡崎市)から田野口藩に移しました。青年時代に積極的に西洋学を学んだ乗謨は、フランスのボーバン城をモデルに、元治元年(1864)龍岡城の建設を開始。奥殿藩は譜代大名でしたが、陣屋格で城を持つ資格がなかったため、城内に天守閣などはなく、内郭の中央に藩主宅と政庁を設ける形で慶応3年(1867)に築城となりました。慶応4年には藩名を田野口藩から龍岡藩に改名。しかし、その後の明治維新で政府が全国の城郭取り壊しを命じたため、明治4年(1871)龍岡城もそのほとんどが取り壊されてしまいました。御殿の一部である御台所(おだいどころ)だけは、学校としての使用申請が認められたため、建物が残されました。現在は、城郭跡に田口小学校が建ち、御台所は校庭の隅に移転しました。また、大広間が佐久市落合の時宗寺本堂に、東通用門が佐久市野沢の成田山薬師寺の門に、移築建造物として残されています。
松平乗謨は、天保10年(1839)11月13日、三河奥殿藩第七代藩主・松平乗利の長男として生まれ、嘉永5年(1852)に家督を継いで第八代藩主となりました。幕政では老中格や陸軍総裁を務めましたが、慶応4年(1868)に陸軍総裁・老中格を辞任。姓も大給(おぎゅう)と改姓しました。明治維新後の明治2年(1869)には藩籍奉還により龍岡藩知事となり、名前も大給恒(おぎゅうゆずる)に改名しました。その後は、佐賀藩の佐野常民とともに博愛社(日本赤十字社の前身)の設立(明治10年)と育成に尽力するとともに、国際的には赤十字条約に加盟するよう政府に働きかけ、明治19年ジュネーブ条約に調印しました。明治20年博愛社は日本赤十字社に改称。さまざまな活動の功績に対し、佐野は「日赤の父」、大給は「日赤の母」と呼ばれています。幕末から明治を生きた松平乗謨は、明治43年(1910)72歳でその生涯に幕を閉じました。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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日本に二つしかない星型稜堡(りょうほ)のひとつ「龍岡城」。築城を手掛けた松平乗謨(のりかた) の人物像とともに紹介します。
龍岡城の誕生物語
龍岡城は、日本に二つしかない五芒星型の西洋式城郭のひとつで、函館の五稜郭と並んで「龍岡城五稜郭」と呼ばれています。
信濃国と三河国に領地を持つ松平乗謨は、幕末の参勤交代制度の緩和を機に、江戸の家族や多くの家臣を養うため、本拠地を奥殿藩(現在の愛知県岡崎市)から田野口藩に移しました。青年時代に積極的に西洋学を学んだ乗謨は、フランスのボーバン城をモデルに、元治元年(1864)龍岡城の建設を開始。奥殿藩は譜代大名でしたが、陣屋格で城を持つ資格がなかったため、城内に天守閣などはなく、内郭の中央に藩主宅と政庁を設ける形で慶応3年(1867)に築城となりました。慶応4年には藩名を田野口藩から龍岡藩に改名。しかし、その後の明治維新で政府が全国の城郭取り壊しを命じたため、明治4年(1871)龍岡城もそのほとんどが取り壊されてしまいました。御殿の一部である御台所(おだいどころ)だけは、学校としての使用申請が認められたため、建物が残されました。現在は、城郭跡に田口小学校が建ち、御台所は校庭の隅に移転しました。また、大広間が佐久市落合の時宗寺本堂に、東通用門が佐久市野沢の成田山薬師寺の門に、移築建造物として残されています。
「日赤の母」としても知られる松平乗謨
松平乗謨は、天保10年(1839)11月13日、三河奥殿藩第七代藩主・松平乗利の長男として生まれ、嘉永5年(1852)に家督を継いで第八代藩主となりました。幕政では老中格や陸軍総裁を務めましたが、慶応4年(1868)に陸軍総裁・老中格を辞任。姓も大給(おぎゅう)と改姓しました。明治維新後の明治2年(1869)には藩籍奉還により龍岡藩知事となり、名前も大給恒(おぎゅうゆずる)に改名しました。その後は、佐賀藩の佐野常民とともに博愛社(日本赤十字社の前身)の設立(明治10年)と育成に尽力するとともに、国際的には赤十字条約に加盟するよう政府に働きかけ、明治19年ジュネーブ条約に調印しました。明治20年博愛社は日本赤十字社に改称。さまざまな活動の功績に対し、佐野は「日赤の父」、大給は「日赤の母」と呼ばれています。
幕末から明治を生きた松平乗謨は、明治43年(1910)72歳でその生涯に幕を閉じました。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。