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(2011年1月1日)
佐久平の気候と豊かな水を活かした先人たちの英知が築き上げた「佐久鯉」の歴史と伝統。近年、特許庁地域団体商標にも登録され、注目を浴びています。
一般的に「鯉の養殖は標高700mが限界」といわれますが、佐久平に鯉の養殖が定着した背景には、佐久平の気候と豊かな水を上手く利用した先人たちの知恵がありました。佐久平は、冬寒く夏暑い寒暑差や、一日の中で朝夕冷えても日中暖かい寒暖差が特長の内陸性気候です。また、千曲川の清流と伏流水、八ヶ岳や秩父山系の広大な自然林を水源とする河川、米作地帯を結ぶ用水など、豊かな水に恵まれています。他の地域の鯉は通常2年で出荷されますが、佐久鯉は冷たい流水で飼育されるため、成長が遅くなります。しかしそれだけに身が引き締まり、臭みのない肉質となるのです。
佐久鯉のルーツは諸説あり、文禄年間(1592―96)には旧南佐久郡(現在の中込・野沢周辺)で既に天然鯉の増殖が行われていたというものから、江戸時代初期に岩村田の篠澤佐五右衛門包道が伊勢神宮神官・福島鳥羽太夫や小諸藩主・青山因幡守に鯉料理を献上した記録があり、この頃には鯉の養殖や調理が行われていたというものまで様々です。鯉の養殖に関しては、「近江鮒に淀の鯉」と称えられ、当時最良とされていた大阪の「淀鯉」を佐久平に持ち込み、養殖させたという歴史も残っています。天明年間(1781―88)には桜井の臼田丹右衛門が大阪淀川から淀鯉を持ち帰ったと言われています。また、文政8年(1825)には岩村田藩主・内藤豊後守が大阪城勤番を終えて帰国する際に淀鯉を持ち帰り、野沢村の豪農・並木七左衛門への土産にしたと伝えられています。その後、千曲川の伏流水が湧き出す桜井地区は有数の鯉の養殖地となり、現在も養殖池を目にすることができます。
天保13年(1842)には、水田養鯉が始まりました。年貢の対象ではなかった養鯉を手広く行うため、水田で米を作りながら鯉を育てるという佐久地域ならではの技法でした。田植え後の水田に放された体長約1.5㎝の稚魚は、旺盛な食欲で害虫や水草を食べ大きくなり、稲株の間を激しく泳ぐことで稲の分けつを促す役割を果たしました。秋には体長15㎝程の当歳(とうざい)(一年鯉)に成長し、大部分はお歳とりの魚として食べられました。冬を湧水池で過ごし、春に再び水田に放され大きくなった鯉は中羽(ちゅうっぱ)(二年鯉)と呼ばれ、秋には業者へ出荷されました。3年目は、鯉の体が大きく水田での養鯉には不向きなため、放流池で養殖されました。時間をかけて育てられた鯉は切鯉(きりごい)(三〜四年鯉)と呼ばれ、「身が締まった美味しい鯉」として知られるようになりました。
大正時代になると、東京への販路開拓が始まりましたが、当時の生産地区からその名称は「野沢の鯉」「桜井の鯉」「中込の鯉」など様々でした。大正13年に野沢町で行われた全国初の「養鯉品評会」で、佐久の鯉が全国的に知られるようになると、鯉の名称統一を望む声が上がりました。当初は「佐久養鯉」という名で統一されましたが、さらに検討の末、昭和5年「佐久鯉」の名が正式に決まりました。昭和4年に行われた天皇即位の御大典には、天長節と国賓パーティ用に佐久鯉千尾、百五十貫が宮内省に納められました。昭和6年に活魚輸送の専用貨車が登場すると、佐久鯉は九州から北海道まで全国へ進出するようになりました。
農業の技術革新が進むと、稲田での鯉養殖は池中養殖・ため池養殖に切り替わっていきました。そのため産地間での競争が激化し、生産コストが安く大量生産が可能な地域に押され、佐久鯉は減少の一途を辿りました。しかし、佐久市立泉小学校児童のレポートをきっかけに、平成16年「佐久の鯉人倶楽部」が発足。「生まれも育ちも佐久の鯉」への取り組みが始まりました。鯉の養殖から料理店のオープン、「お歳とりは佐久鯉で」キャンペーンなど、その活動は多岐にわたります。そして、佐久市をはじめ県水産試験場、佐久商工会議所など関係機関が連携し、平成20年に、「佐久鯉」は特許庁地域団体商標に登録されました。今後はさらなる「佐久鯉」ブランドの形成が図られ、健康ブームにも乗り、注目を集めることでしょう。
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佐久平の気候と豊かな水を活かした先人たちの英知が築き上げた「佐久鯉」の歴史と伝統。近年、特許庁地域団体商標にも登録され、注目を浴びています。
自然の恩恵を受け
一般的に「鯉の養殖は標高700mが限界」といわれますが、佐久平に鯉の養殖が定着した背景には、佐久平の気候と豊かな水を上手く利用した先人たちの知恵がありました。佐久平は、冬寒く夏暑い寒暑差や、一日の中で朝夕冷えても日中暖かい寒暖差が特長の内陸性気候です。また、千曲川の清流と伏流水、八ヶ岳や秩父山系の広大な自然林を水源とする河川、米作地帯を結ぶ用水など、豊かな水に恵まれています。
他の地域の鯉は通常2年で出荷されますが、佐久鯉は冷たい流水で飼育されるため、成長が遅くなります。しかしそれだけに身が引き締まり、臭みのない肉質となるのです。
養鯉(ようり)の歴史
佐久鯉のルーツは諸説あり、文禄年間(1592―96)には旧南佐久郡(現在の中込・野沢周辺)で既に天然鯉の増殖が行われていたというものから、江戸時代初期に岩村田の篠澤佐五右衛門包道が伊勢神宮神官・福島鳥羽太夫や小諸藩主・青山因幡守に鯉料理を献上した記録があり、この頃には鯉の養殖や調理が行われていたというものまで様々です。
鯉の養殖に関しては、「近江鮒に淀の鯉」と称えられ、当時最良とされていた大阪の「淀鯉」を佐久平に持ち込み、養殖させたという歴史も残っています。天明年間(1781―88)には桜井の臼田丹右衛門が大阪淀川から淀鯉を持ち帰ったと言われています。また、文政8年(1825)には岩村田藩主・内藤豊後守が大阪城勤番を終えて帰国する際に淀鯉を持ち帰り、野沢村の豪農・並木七左衛門への土産にしたと伝えられています。その後、千曲川の伏流水が湧き出す桜井地区は有数の鯉の養殖地となり、現在も養殖池を目にすることができます。
佐久ならではの水田養鯉
天保13年(1842)には、水田養鯉が始まりました。年貢の対象ではなかった養鯉を手広く行うため、水田で米を作りながら鯉を育てるという佐久地域ならではの技法でした。田植え後の水田に放された体長約1.5㎝の稚魚は、旺盛な食欲で害虫や水草を食べ大きくなり、稲株の間を激しく泳ぐことで稲の分けつを促す役割を果たしました。秋には体長15㎝程の当歳(とうざい)(一年鯉)に成長し、大部分はお歳とりの魚として食べられました。冬を湧水池で過ごし、春に再び水田に放され大きくなった鯉は中羽(ちゅうっぱ)(二年鯉)と呼ばれ、秋には業者へ出荷されました。3年目は、鯉の体が大きく水田での養鯉には不向きなため、放流池で養殖されました。時間をかけて育てられた鯉は切鯉(きりごい)(三〜四年鯉)と呼ばれ、「身が締まった美味しい鯉」として知られるようになりました。
「佐久鯉」の名称統一と全国進出
大正時代になると、東京への販路開拓が始まりましたが、当時の生産地区からその名称は「野沢の鯉」「桜井の鯉」「中込の鯉」など様々でした。大正13年に野沢町で行われた全国初の「養鯉品評会」で、佐久の鯉が全国的に知られるようになると、鯉の名称統一を望む声が上がりました。当初は「佐久養鯉」という名で統一されましたが、さらに検討の末、昭和5年「佐久鯉」の名が正式に決まりました。
昭和4年に行われた天皇即位の御大典には、天長節と国賓パーティ用に佐久鯉千尾、百五十貫が宮内省に納められました。昭和6年に活魚輸送の専用貨車が登場すると、佐久鯉は九州から北海道まで全国へ進出するようになりました。
「佐久鯉」ブランド認定
農業の技術革新が進むと、稲田での鯉養殖は池中養殖・ため池養殖に切り替わっていきました。そのため産地間での競争が激化し、生産コストが安く大量生産が可能な地域に押され、佐久鯉は減少の一途を辿りました。
しかし、佐久市立泉小学校児童のレポートをきっかけに、平成16年「佐久の鯉人倶楽部」が発足。「生まれも育ちも佐久の鯉」への取り組みが始まりました。鯉の養殖から料理店のオープン、「お歳とりは佐久鯉で」キャンペーンなど、その活動は多岐にわたります。
そして、佐久市をはじめ県水産試験場、佐久商工会議所など関係機関が連携し、平成20年に、「佐久鯉」は特許庁地域団体商標に登録されました。今後はさらなる「佐久鯉」ブランドの形成が図られ、健康ブームにも乗り、注目を集めることでしょう。
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