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(2010年10月1日)
江戸時代の初めに、市川五郎兵衛が私財を投じて引いた五郎兵衛用水。美味しいお米を育む礎となった用水路開削の歴史をご紹介します。
市川五郎兵衛真親は上野国甘楽郡羽沢村(現在の群馬県甘楽郡南牧村羽沢)に生まれました。当時の市川家は甲斐国武田家に仕える武士でしたが、五郎兵衛が幼い頃に武田家が滅び、徳川家康から家来になるように誘われていました。しかし、市川家はその誘いを断り、文禄2年(1593)に家康から「家康の領地内を自由に鉱山開発・新田開発してよい」という開発許可朱印状を得ました。武士を捨て、開発事業の道を選んだ市川家は、砥沢村(現在の南牧村砥沢)で砥石山の鉱山開発を行い、佐久地域で新田開発を始めました。
佐久を訪れた市川五郎兵衛は、まず三河田新田、市村新田を開発し、ついで当時この地域を治めていた小諸藩から寛永3年(1626)に矢嶋原(現在の五郎兵衛新田)の開発許可を得て、本格的な工事を開始しました。当時の矢嶋原は草原で、水田に必要な用水がありませんでした。「ここに用水を引けば、すばらしい水田地帯を作ることができる」と考えた五郎兵衛は、まず水源探しから始めました。3年後、蓼科山(2530m)の山中に湧き水を見つけた五郎兵衛は、岩下川(現在の細小路川)に水を落とし、湯沢川との合流点でせき止めて取水し、そこから山に沿って水路を築き、矢嶋原まで用水を引きました。山間部の用水路は「岩間せぎ」、平坦部の用水路は「土間せぎ」と呼ばれ、土間せぎには用水路の高さを維持するために盛り土をした「つきせぎ」が約1㎞に渡り続いている箇所もありました。全長約20㎞の五郎兵衛用水は、当時の高度な土木技術を駆使し、4〜5年かけて、寛永7、8年頃に完成しました。
山を抜け、沢を渡る用水路は、風雨で破損することも多く、毎年改修に多大な費用と労力を費やさなければなりませんでした。そうした努力は、江戸時代だけでなく、明治・大正・昭和まで続けられ、昭和30 年代半ばから10年かけて行われた大改修により、近代的な用水路に生まれ変わりました。五郎兵衛用水により矢嶋原には広大な新田ができ、五郎兵衛新田村と呼ばれるようになりました。村には寛文11年(1671)73軒の家があり、享保5年(1720)には126軒に増えました。明治初頭にはさらに軒数が増加し、700〜800人の人々が暮らすようになりました。そして現在、五郎兵衛用水は浅科だけでなく、広く周辺地域を潤す大切な用水として利用されています。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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江戸時代の初めに、市川五郎兵衛が私財を投じて引いた五郎兵衛用水。美味しいお米を育む礎となった用水路開削の歴史をご紹介します。
武士からの転身
市川五郎兵衛真親は上野国甘楽郡羽沢村(現在の群馬県甘楽郡南牧村羽沢)に生まれました。当時の市川家は甲斐国武田家に仕える武士でしたが、五郎兵衛が幼い頃に武田家が滅び、徳川家康から家来になるように誘われていました。しかし、市川家はその誘いを断り、文禄2年(1593)に家康から「家康の領地内を自由に鉱山開発・新田開発してよい」という開発許可朱印状を得ました。武士を捨て、開発事業の道を選んだ市川家は、砥沢村(現在の南牧村砥沢)で砥石山の鉱山開発を行い、佐久地域で新田開発を始めました。
五郎兵衛用水を引く
佐久を訪れた市川五郎兵衛は、まず三河田新田、市村新田を開発し、ついで当時この地域を治めていた小諸藩から寛永3年(1626)に矢嶋原(現在の五郎兵衛新田)の開発許可を得て、本格的な工事を開始しました。当時の矢嶋原は草原で、水田に必要な用水がありませんでした。「ここに用水を引けば、すばらしい水田地帯を作ることができる」と考えた五郎兵衛は、まず水源探しから始めました。3年後、蓼科山(2530m)の山中に湧き水を見つけた五郎兵衛は、岩下川(現在の細小路川)に水を落とし、湯沢川との合流点でせき止めて取水し、そこから山に沿って水路を築き、矢嶋原まで用水を引きました。山間部の用水路は「岩間せぎ」、平坦部の用水路は「土間せぎ」と呼ばれ、土間せぎには用水路の高さを維持するために盛り土をした「つきせぎ」が約1㎞に渡り続いている箇所もありました。全長約20㎞の五郎兵衛用水は、当時の高度な土木技術を駆使し、4〜5年かけて、寛永7、8年頃に完成しました。
人々の努力で守り継がれた用水路
山を抜け、沢を渡る用水路は、風雨で破損することも多く、毎年改修に多大な費用と労力を費やさなければなりませんでした。そうした努力は、江戸時代だけでなく、明治・大正・昭和まで続けられ、昭和30 年代半ばから10年かけて行われた大改修により、近代的な用水路に生まれ変わりました。
五郎兵衛用水により矢嶋原には広大な新田ができ、五郎兵衛新田村と呼ばれるようになりました。村には寛文11年(1671)73軒の家があり、享保5年(1720)には126軒に増えました。明治初頭にはさらに軒数が増加し、700〜800人の人々が暮らすようになりました。そして現在、五郎兵衛用水は浅科だけでなく、広く周辺地域を潤す大切な用水として利用されています。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。