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(2010年9月1日)
軽井沢屈指の観光名所「旧三笠ホテル」。「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれた異国情緒漂うホテルには、若き実業家が描いた夢があふれていました。
英国聖公会宣教師ショーが避暑地・軽井沢を見い出した後、急激に増えた外国人客の需要に応えるため、明治30年代、軽井沢には「萬平ホテル(現在の万平ホテル)」「軽井沢ホテル」など洋風ホテルが次々と誕生しました。三笠ホテルを創業したのは、第十五国立銀行・明治製菓・日本郵船の重役に名を連ねた東京の実業家・山本直良(明治3年〜昭和20年)でした。農科大学(東大農学部の前身)獣医科出身の彼は、銀行家の父から譲り受けた25万坪の土地に、酪農を中心とした大農園を造ろうとしました。しかし、寒冷気候と浅間山の火山灰土という悪条件により牧草が育たず、事業の中心を別荘地開発や観光へ移しました。ホテルをオープンしたのは明治39年。当初は外国人客が大半でしたが、日本の特権階級や政財界人の間に避暑の概念が浸透しはじめた大正期になると、彼らが顧客の中心を占めるようになりました。また、直良の妻・愛子は小説家・有島武郎や里見弴(とん)を兄弟に持つ芸術家一族の出身だったため、白樺派文化人たちの夏の社交場として利用されるようにもなり、「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれました。建物を設計したのはロンドン仕込みの岡田時太郎で、八角の美しい塔屋でアクセントをつけたスティックスタイル(木骨様式)と、ドイツ式下見板張りの重厚な外観がひときわ目を引きました。監督は萬平ホテルの佐藤萬平、棟梁は腕利きの誉れ高い地元の小林代造がつとめました。カーテンボックスや家具には画家の有島生馬(愛子の弟)がデザインしたロゴが彫られ、洋食器には丁寧な絵付けが施こされました。さらに直良は、京都から陶芸家を招き「三笠焼」を開窯。あけび細工や軽井沢彫りを販売する三笠商店を設けるなど、三笠一帯の開発にも取り組みました。ホテルは、客室30室、定員40名という小規模なものでしたが、食事やサービスは一流でした。当時まだ珍しかった電燈シャンデリアから英国製カーペット、プール、水洗トイレまで完備され、駅からは黒塗り馬車の送迎付という見事な豪奢ぶりを誇ったホテルでした。しかし、事実上夏だけの営業では赤字経営が続き、青年実業家の夢は次第に色褪せていきました。
大正14年、金融恐慌を目前にホテルは山本の手を離れ、経営母体がかわりました。太平洋戦争中は休業となりましたが、軽井沢が駐日外国人の主要疎開地に指定されたことから、外務省の軽井沢出張所として利用されました。戦後は進駐軍の施設となり、昭和27年に米軍より返還。その後三笠ハウスの名で営業を再開しましたが、昭和45年に宿泊施設としての役割を静かに終えました。建物は取り壊しの運命にあったところ、その歴史的価値を惜しむ声があがり、昭和55年に国の重要文化財に指定されました。美しい自然の中で優雅にたたずむ往年の名建築は、軽井沢の一時代を象徴するモニュメントとなっています。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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軽井沢屈指の観光名所「旧三笠ホテル」。「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれた異国情緒漂うホテルには、若き実業家が描いた夢があふれていました。
一時代を華麗に彩った軽井沢の鹿鳴館
英国聖公会宣教師ショーが避暑地・軽井沢を見い出した後、急激に増えた外国人客の需要に応えるため、明治30年代、軽井沢には「萬平ホテル(現在の万平ホテル)」「軽井沢ホテル」など洋風ホテルが次々と誕生しました。三笠ホテルを創業したのは、第十五国立銀行・明治製菓・日本郵船の重役に名を連ねた東京の実業家・山本直良(明治3年〜昭和20年)でした。農科大学(東大農学部の前身)獣医科出身の彼は、銀行家の父から譲り受けた25万坪の土地に、酪農を中心とした大農園を造ろうとしました。しかし、寒冷気候と浅間山の火山灰土という悪条件により牧草が育たず、事業の中心を別荘地開発や観光へ移しました。
ホテルをオープンしたのは明治39年。当初は外国人客が大半でしたが、日本の特権階級や政財界人の間に避暑の概念が浸透しはじめた大正期になると、彼らが顧客の中心を占めるようになりました。また、直良の妻・愛子は小説家・有島武郎や里見弴(とん)を兄弟に持つ芸術家一族の出身だったため、白樺派文化人たちの夏の社交場として利用されるようにもなり、「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれました。
建物を設計したのはロンドン仕込みの岡田時太郎で、八角の美しい塔屋でアクセントをつけたスティックスタイル(木骨様式)と、ドイツ式下見板張りの重厚な外観がひときわ目を引きました。監督は萬平ホテルの佐藤萬平、棟梁は腕利きの誉れ高い地元の小林代造がつとめました。カーテンボックスや家具には画家の有島生馬(愛子の弟)がデザインしたロゴが彫られ、洋食器には丁寧な絵付けが施こされました。さらに直良は、京都から陶芸家を招き「三笠焼」を開窯。あけび細工や軽井沢彫りを販売する三笠商店を設けるなど、三笠一帯の開発にも取り組みました。ホテルは、客室30室、定員40名という小規模なものでしたが、食事やサービスは一流でした。当時まだ珍しかった電燈シャンデリアから英国製カーペット、プール、水洗トイレまで完備され、駅からは黒塗り馬車の送迎付という見事な豪奢ぶりを誇ったホテルでした。
しかし、事実上夏だけの営業では赤字経営が続き、青年実業家の夢は次第に色褪せていきました。
国の重要文化財に
大正14年、金融恐慌を目前にホテルは山本の手を離れ、経営母体がかわりました。太平洋戦争中は休業となりましたが、軽井沢が駐日外国人の主要疎開地に指定されたことから、外務省の軽井沢出張所として利用されました。戦後は進駐軍の施設となり、昭和27年に米軍より返還。その後三笠ハウスの名で営業を再開しましたが、昭和45年に宿泊施設としての役割を静かに終えました。
建物は取り壊しの運命にあったところ、その歴史的価値を惜しむ声があがり、昭和55年に国の重要文化財に指定されました。美しい自然の中で優雅にたたずむ往年の名建築は、軽井沢の一時代を象徴するモニュメントとなっています。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。