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(2010年8月1日)
真夏でもひんやりと涼しく、神秘に満ちた真楽寺。 1400年の歴史と伝説に彩られた古刹の魅力に迫ります。
真楽寺は、聖徳太子の父である用明天皇の勅願により、浅間山の噴火が鎮まることを祈願して587年に建立されました。当初は山頂に近い場所に位置していましたが、天養2年(1145)に現在の場所へ移ったといわれています。 浅間山の伏流水が湧き出る山門手前の大沼の池には、かつて聖徳太子が立ち寄ったという「七尋芹」や「甲賀三郎」の伝説も残されています。 かつては約2万坪の境内に、本堂・五重塔・観音堂・仁王門など30余の諸堂があり、中世にはすでに大規模な寺院だったようです。 現在は、約1万坪の境内に、本堂・庫裏・恵光殿・大玄関・聖天堂・中雀門・三重塔・観音堂・鐘楼・宝庫・閻魔堂があり、昭和61年には高さ20mの子育て地蔵菩薩も建立されました。 長野県の県宝に指定されている三重塔は、慶長18年(1613)に焼失し、寛永4年(1751)に再建、250年目の平成13年(2001)に改修されました。 また、樹齢1300年を誇る神代杉の中央に割れ目があり、下の大きな空洞が黒焦げになっているのは、文化13年(1816)の火災の跡だそうです。 その他にも「むすぶよりはや歯にひびく清水かな」と刻まれた芭蕉句碑、源頼朝公ゆかりの逆さ梅などが立ち並び、荘厳な雰囲気を漂わせています。
むかし蓼科山の麓に、甲賀太郎、二郎、三郎という兄弟が住んでいました。一番下の三郎は正直で、頼もしい若者だったので、家の跡を継ぎ、美しい妻とともに幸せな生活を送っていました。 そんな弟を妬んだふたりの兄は、ある日、三郎をだまして蓼科山へ誘い、深い穴へ突き落してしまいました。 三郎は穴から出ようと懸命に地の底をはい回り、妻の名を呼びながら走り続けました。長い長い月日をかけ、三郎はようやく地上へ辿り着きました。 三郎が顔を出したその場所こそが、浅間山の裾野にある真楽寺にある大沼の池だったのです。 三郎の顔を見た子どもたちは「龍が出たー」と叫びました。 三郎が驚いて自分の姿を水に映すとなんと龍の姿になっていました。それでも三郎は愛しい妻を探しに、蓼科山へ向かいました。 一方妻は、三郎を探し求め、山野を駆け巡り、悲しみ苦しんだすえ、諏訪湖に身を投げ、龍の姿となり、湖の底に住んでいました。龍になった三郎は、諏訪湖でようやく愛しい妻と巡り合うことができ、今でも諏訪湖の底で暮らしていると言われています。
「龍神まつり」は、昭和57年に御代田町観光協会主催で行われた夏祭りをきっかけに続いている御代田町を代表する祭りです。昭和60年には実行委員会を組織、平成4年には「龍の舞保存会」も発足しました。 平成10年に開催された長野冬季オリンピックのユースキャンプや長野冬季パラリンピック閉会式、平成17年に開催されたSO冬季世界大会閉会式に出演するなど、活躍の場も広がっています。 この祭りは、「甲賀三郎伝説」をモチーフに作られ、三郎が龍の姿となり地底から戻ってきた場所とされる真楽寺で、とぐろを巻く龍神が一年間の眠りから目を覚ます「龍神開眼式」を行います。その後、全長45mの甲賀三郎と21mの舞姫が「奉納の舞」を披露します。 神秘的な雰囲気、勇壮的な太鼓の音、美しい花火が融合した壮大な祭りは、これからも町の一大イベントとして受け継がれていくことでしょう。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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真夏でもひんやりと涼しく、神秘に満ちた真楽寺。 1400年の歴史と伝説に彩られた古刹の魅力に迫ります。
歴史と伝説に彩られた古刹
真楽寺は、聖徳太子の父である用明天皇の勅願により、浅間山の噴火が鎮まることを祈願して587年に建立されました。当初は山頂に近い場所に位置していましたが、天養2年(1145)に現在の場所へ移ったといわれています。
浅間山の伏流水が湧き出る山門手前の大沼の池には、かつて聖徳太子が立ち寄ったという「七尋芹」や「甲賀三郎」の伝説も残されています。
かつては約2万坪の境内に、本堂・五重塔・観音堂・仁王門など30余の諸堂があり、中世にはすでに大規模な寺院だったようです。
現在は、約1万坪の境内に、本堂・庫裏・恵光殿・大玄関・聖天堂・中雀門・三重塔・観音堂・鐘楼・宝庫・閻魔堂があり、昭和61年には高さ20mの子育て地蔵菩薩も建立されました。
長野県の県宝に指定されている三重塔は、慶長18年(1613)に焼失し、寛永4年(1751)に再建、250年目の平成13年(2001)に改修されました。
また、樹齢1300年を誇る神代杉の中央に割れ目があり、下の大きな空洞が黒焦げになっているのは、文化13年(1816)の火災の跡だそうです。
その他にも「むすぶよりはや歯にひびく清水かな」と刻まれた芭蕉句碑、源頼朝公ゆかりの逆さ梅などが立ち並び、荘厳な雰囲気を漂わせています。
甲賀三郎伝説
むかし蓼科山の麓に、甲賀太郎、二郎、三郎という兄弟が住んでいました。一番下の三郎は正直で、頼もしい若者だったので、家の跡を継ぎ、美しい妻とともに幸せな生活を送っていました。
そんな弟を妬んだふたりの兄は、ある日、三郎をだまして蓼科山へ誘い、深い穴へ突き落してしまいました。
三郎は穴から出ようと懸命に地の底をはい回り、妻の名を呼びながら走り続けました。長い長い月日をかけ、三郎はようやく地上へ辿り着きました。
三郎が顔を出したその場所こそが、浅間山の裾野にある真楽寺にある大沼の池だったのです。 三郎の顔を見た子どもたちは「龍が出たー」と叫びました。
三郎が驚いて自分の姿を水に映すとなんと龍の姿になっていました。それでも三郎は愛しい妻を探しに、蓼科山へ向かいました。
一方妻は、三郎を探し求め、山野を駆け巡り、悲しみ苦しんだすえ、諏訪湖に身を投げ、龍の姿となり、湖の底に住んでいました。龍になった三郎は、諏訪湖でようやく愛しい妻と巡り合うことができ、今でも諏訪湖の底で暮らしていると言われています。
新たな歴史の始まり「龍神まつり」
「龍神まつり」は、昭和57年に御代田町観光協会主催で行われた夏祭りをきっかけに続いている御代田町を代表する祭りです。昭和60年には実行委員会を組織、平成4年には「龍の舞保存会」も発足しました。
平成10年に開催された長野冬季オリンピックのユースキャンプや長野冬季パラリンピック閉会式、平成17年に開催されたSO冬季世界大会閉会式に出演するなど、活躍の場も広がっています。
この祭りは、「甲賀三郎伝説」をモチーフに作られ、三郎が龍の姿となり地底から戻ってきた場所とされる真楽寺で、とぐろを巻く龍神が一年間の眠りから目を覚ます「龍神開眼式」を行います。その後、全長45mの甲賀三郎と21mの舞姫が「奉納の舞」を披露します。
神秘的な雰囲気、勇壮的な太鼓の音、美しい花火が融合した壮大な祭りは、これからも町の一大イベントとして受け継がれていくことでしょう。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。