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(2011年6月29日)
中国大陸や朝鮮半島からの影響で稲作や金属器の使用が始まった紀元前4世紀頃〜紀元後2世紀半ばを弥生時代と呼びます。稲作文化は九州北部に上陸し、一挙に東北地方北部まで広がりました。初期の稲作文化は日本海沿岸に点在し、初めから成熟した農法が用いられていることから、渡来人が大きく関与したと考えられています。縄文時代にはなかった戦争が始まったのもこの時代で、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には抗争の記録も遺されています。
日本海沿岸では早期〜前期に稲作が始まりましたが、高冷な佐久地方では稲作の可能性を示唆する同時期の遺跡は発見されていません。佐久穂町館(たて)遺跡の土偶型容器、佐久穂町中原遺跡の壺、臼田の月夜平遺跡の壺や深鉢は、佐久地方では数少ない中期前半の遺物ですが、いずれも狩猟・採集に適した山間部で、稲作が行われたとは考えにくい立地です。
中期後半になると、壺や甕かめを中心とした栗林式土器が作られました。この土器は農耕社会への移行を象徴するもので、水田に適した岩村田や長土呂に集落跡が発見されました。佐久の北西ノ久保遺跡は、信州短期大学のある台地に位置し、昭和57年と60年に発掘調査が行われました。広大な台地に総数92軒の竪穴住居跡が発見され、佐久地方における栗林式期最大の集落とされました。さらに10年後には、東の西一本柳遺跡、西の鳴澤遺跡群五里田(ごりた)遺跡で同時期と見られる竪穴住居が多数発見され、これらがひと続きのムラであったと推定されています。この地域が当時の人口密集地で、大規模集落が存在していたことがほぼ確実になったのです。栗林式期の遺跡は、湯川沿いに根々井芝宮遺跡、川原端遺跡などからも辿ることができ、岩村田から一挙に水田開発を推し進めていったのではないかと考えられています。しかし、残念ながら肝心な水田跡が未発見のため、水田の実態については未だ解明されていません。
昭和5年、佐久市志賀「赤壁家」の神津猛さんが、岩村田駅近くの高台に竪穴住居と赤い土器を発見。昭和11年にこれらは、信濃の後期弥生土器「岩村田式土器」と命名されました。しかし、30年後、善光寺平の「箱清水(はこしみず)式」と同種であることが分かり、「岩村田式」の名は残念ながら消滅してしまいました。箱清水式土器はベンガラ(酸化第二鉄)による赤色が特徴です。生活道具を赤く装飾する行為は、他の地域に比べ、とくに信濃の中部高地で発達したようです。
佐久市下聖端(しもひじりばた)遺跡の後期の焼失した竪穴住居から炭化種子が発見されました。その分析結果は「コメの比率は低く、コムギが多い」。当時どの程度コメを食べていたかは解明されておらず、水が豊富な低湿地ではコメを中心に、高台ではコムギなどを作り主食にしていたのではないかと考えられています。甕にオコゲが残ることから、穀物は炊いたり煮たりして食べていたようです。佐久市竹田峯遺跡では土製のスプーンが出土しており、道具を使って食べていた様も想像できます。
佐久地方の竪穴住居は長方形で四隅が丸い隅丸方形で、長さ4〜5m、面積20㎡が平均的な大きさでした。ところが、平成18年に長土呂の西近津(にしちかつ)遺跡で発見された住居は、日本最大級を誇る153㎡(約46坪)。一般的な住居の7倍近い大きさで、首長の家または祭殿であったと見られています。この地域は中部横断道建設地で、一度現代に顔を出した超大型住居は、再び道路の下で永い眠りにつきました。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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弥生時代とは
中国大陸や朝鮮半島からの影響で稲作や金属器の使用が始まった紀元前4世紀頃〜紀元後2世紀半ばを弥生時代と呼びます。稲作文化は九州北部に上陸し、一挙に東北地方北部まで広がりました。初期の稲作文化は日本海沿岸に点在し、初めから成熟した農法が用いられていることから、渡来人が大きく関与したと考えられています。
縄文時代にはなかった戦争が始まったのもこの時代で、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には抗争の記録も遺されています。
弥生時代前期までの佐久地方
日本海沿岸では早期〜前期に稲作が始まりましたが、高冷な佐久地方では稲作の可能性を示唆する同時期の遺跡は発見されていません。佐久穂町館(たて)遺跡の土偶型容器、佐久穂町中原遺跡の壺、臼田の月夜平遺跡の壺や深鉢は、佐久地方では数少ない中期前半の遺物ですが、いずれも狩猟・採集に適した山間部で、稲作が行われたとは考えにくい立地です。
栗林式土器と水田開発
中期後半になると、壺や甕かめを中心とした栗林式土器が作られました。この土器は農耕社会への移行を象徴するもので、水田に適した岩村田や長土呂に集落跡が発見されました。
佐久の北西ノ久保遺跡は、信州短期大学のある台地に位置し、昭和57年と60年に発掘調査が行われました。広大な台地に総数92軒の竪穴住居跡が発見され、佐久地方における栗林式期最大の集落とされました。さらに10年後には、東の西一本柳遺跡、西の鳴澤遺跡群五里田(ごりた)遺跡で同時期と見られる竪穴住居が多数発見され、これらがひと続きのムラであったと推定されています。この地域が当時の人口密集地で、大規模集落が存在していたことがほぼ確実になったのです。
栗林式期の遺跡は、湯川沿いに根々井芝宮遺跡、川原端遺跡などからも辿ることができ、岩村田から一挙に水田開発を推し進めていったのではないかと考えられています。しかし、残念ながら肝心な水田跡が未発見のため、水田の実態については未だ解明されていません。
消えた「岩村田式土器」
昭和5年、佐久市志賀「赤壁家」の神津猛さんが、岩村田駅近くの高台に竪穴住居と赤い土器を発見。昭和11年にこれらは、信濃の後期弥生土器「岩村田式土器」と命名されました。しかし、30年後、善光寺平の「箱清水(はこしみず)式」と同種であることが分かり、「岩村田式」の名は残念ながら消滅してしまいました。
箱清水式土器はベンガラ(酸化第二鉄)による赤色が特徴です。生活道具を赤く装飾する行為は、他の地域に比べ、とくに信濃の中部高地で発達したようです。
弥生人の食生活
佐久市下聖端(しもひじりばた)遺跡の後期の焼失した竪穴住居から炭化種子が発見されました。その分析結果は「コメの比率は低く、コムギが多い」。当時どの程度コメを食べていたかは解明されておらず、水が豊富な低湿地ではコメを中心に、高台ではコムギなどを作り主食にしていたのではないかと考えられています。甕にオコゲが残ることから、穀物は炊いたり煮たりして食べていたようです。佐久市竹田峯遺跡では土製のスプーンが出土しており、道具を使って食べていた様も想像できます。
日本最大級の弥生住居
佐久地方の竪穴住居は長方形で四隅が丸い隅丸方形で、長さ4〜5m、面積20㎡が平均的な大きさでした。ところが、平成18年に長土呂の西近津(にしちかつ)遺跡で発見された住居は、日本最大級を誇る153㎡(約46坪)。一般的な住居の7倍近い大きさで、首長の家または祭殿であったと見られています。この地域は中部横断道建設地で、一度現代に顔を出した超大型住居は、再び道路の下で永い眠りにつきました。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。