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(2011年5月31日)
縄文中期の終わり頃から後期まで、茅野から富士見町の八ヶ岳西南麓や、山梨県にかけて、遺跡が急激に減少します。逆に「佐久地域の縄文は後期」といわれるほど、佐久地域には多くの遺跡が残されており、両地域で人口の逆転が起きたようです。この頃は、家の床に平らな石を敷き詰めた「敷石住居」が作られるのが大きな特徴でした。佐久市望月の平石(ひらいし)遺跡、佐久市大奈良遺跡、佐久穂町宮の本遺跡、小諸市郷土(ごうど)遺跡、御代田町滝沢遺跡などの広い地域に見られ、蓼科山麓や佐久穂町から出る鉄平石を家の床に使っています。
昭和33年、軽井沢の森泉山麓にある茂沢南石堂(もざわみなみいしどう)遺跡で重要な発見がありました。たくさんの石を箱型に組んだ棺(ひつぎ)がみつかり、縄文後期の葬送を示すものとして注目されました。棺の長さは約1.5m、人骨は消えていましたが、身体を伸ばした埋葬法である伸展葬(しんてんそう)であったと考えられます。また、遺体に甕(かめ)をかぶせた甕被葬(かめかぶりそう)も見られ、神聖な遺体の顔に土がかからない工夫であったともみられています。石棺墓(せっかんぼ)は御代田町宮平遺跡や佐久市月夜平(つきよだいら)遺跡など、佐久地域の各地で見られる共通した埋葬法です。
後期には、長さ20㎝程度の磨かれた石棒がいくつも発見されています。中期のものは巨大で何かのシンボル的な存在であったのに対し、後期には小型化し、特定個人の所有物であったと考えられます。月夜平遺跡で発見された石棒は優美なもので、入沢大宮の諏訪神社に納められています。御代田町宮平遺跡では、精巧な模様が刻まれた土製の耳飾りやヒスイ製のペンダントが発見されています。また、小諸市石神(いしがみ)遺跡では骨で作ったヘアピンが発見されています。こうした出土品から縄文人の髪型やファッションを窺うかがい知ることができます。
後期を過ぎると、佐久地域でも人口の減少が目立ちますが、気候の寒冷化がその原因のひとつであったと考えられています。集落も中期までは見晴らしの良い台地などに作られていましたが、晩期までには水辺のある低地に移行していきました。晩期の遺跡は極端に数が減りますが、数少ない遺跡のうち小諸市石神遺跡から出土した「遮光器(しゃこうき)土偶」は、東北地方亀ヶ岡文化の土偶を模して作られたものと考えられています。晩期末の遺跡としては小諸市氷(こおり)遺跡が知られていますが、この頃東海地方では、稲作が始まっていたようです。晩期は、縄文時代の伝統に基づき暮らしていた人々と、水田稲作をはじめた人々が共存していたと考えられています。やがて新しい時代〝弥生〞の幕が開けます。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。
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発展した佐久の縄文後期
縄文中期の終わり頃から後期まで、茅野から富士見町の八ヶ岳西南麓や、山梨県にかけて、遺跡が急激に減少します。逆に「佐久地域の縄文は後期」といわれるほど、佐久地域には多くの遺跡が残されており、両地域で人口の逆転が起きたようです。
この頃は、家の床に平らな石を敷き詰めた「敷石住居」が作られるのが大きな特徴でした。佐久市望月の平石(ひらいし)遺跡、佐久市大奈良遺跡、佐久穂町宮の本遺跡、小諸市郷土(ごうど)遺跡、御代田町滝沢遺跡などの広い地域に見られ、蓼科山麓や佐久穂町から出る鉄平石を家の床に使っています。
後期縄文人の墓
昭和33年、軽井沢の森泉山麓にある茂沢南石堂(もざわみなみいしどう)遺跡で重要な発見がありました。たくさんの石を箱型に組んだ棺(ひつぎ)がみつかり、縄文後期の葬送を示すものとして注目されました。棺の長さは約1.5m、人骨は消えていましたが、身体を伸ばした埋葬法である伸展葬(しんてんそう)であったと考えられます。また、遺体に甕(かめ)をかぶせた甕被葬(かめかぶりそう)も見られ、神聖な遺体の顔に土がかからない工夫であったともみられています。石棺墓(せっかんぼ)は御代田町宮平遺跡や佐久市月夜平(つきよだいら)遺跡など、佐久地域の各地で見られる共通した埋葬法です。
石棒と様々なアクセサリー
後期には、長さ20㎝程度の磨かれた石棒がいくつも発見されています。中期のものは巨大で何かのシンボル的な存在であったのに対し、後期には小型化し、特定個人の所有物であったと考えられます。月夜平遺跡で発見された石棒は優美なもので、入沢大宮の諏訪神社に納められています。
御代田町宮平遺跡では、精巧な模様が刻まれた土製の耳飾りやヒスイ製のペンダントが発見されています。また、小諸市石神(いしがみ)遺跡では骨で作ったヘアピンが発見されています。こうした出土品から縄文人の髪型やファッションを窺うかがい知ることができます。
人口の減少と縄文時代の終わり
後期を過ぎると、佐久地域でも人口の減少が目立ちますが、気候の寒冷化がその原因のひとつであったと考えられています。集落も中期までは見晴らしの良い台地などに作られていましたが、晩期までには水辺のある低地に移行していきました。
晩期の遺跡は極端に数が減りますが、数少ない遺跡のうち小諸市石神遺跡から出土した「遮光器(しゃこうき)土偶」は、東北地方亀ヶ岡文化の土偶を模して作られたものと考えられています。晩期末の遺跡としては小諸市氷(こおり)遺跡が知られていますが、この頃東海地方では、稲作が始まっていたようです。
晩期は、縄文時代の伝統に基づき暮らしていた人々と、水田稲作をはじめた人々が共存していたと考えられています。やがて新しい時代〝弥生〞の幕が開けます。
※本誌記事・写真・イラストの無断転載は著作権の侵害となりますので固くお断りいたします。