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2024春の叙勲「瑞宝中綬章」受章・ 元国立病院機構小諸高原病院院長 庄田 秀志さん

しょうだ ひでし 1946年 茨城県生まれ・信州大学医学部卒業、同大精神医学教室で研修 1979年より沖縄に7年半赴任した際、「江場秀志」の名で執筆活動を開始し、「奇妙な果実」が第8回新沖縄文学賞佳作入選、「午後の祠り」が第9回すばる文学賞を受賞 2003年より8年間小諸高原病院院長を務める 2012年小諸高原病院名誉院長就任

人と少し違う自分

山形県で教員をしていた両親が結婚し、茨城県に赴任していたときに生まれました。5人きょうだいの末っ子で、家は田んぼや畑に囲まれた農村地帯にありました。戦後なので食べ物は今ほど豊かではなく、姉に誘われて一緒に学校へ給食を食べに行ったこともありました。そんなとき、学校よりもずっと先まで歩いて行ってしまうことがあり、「自分はちょっと人とは違うかも」と感じるようになりました。 5歳の時に高知県の四万十川の近くに引っ越しました。京都大学に進んだ一番上の兄が「これで勉強をしたらどうか」と数学や英語など様々な本を置いていきました。最初は勉強があまり好きではなく見向きもしませんでしたが、時間があったため本を手に取り勉強するようになり、わからない問題は職員室に持っていき先生と一緒に解き、内容が理解できるようになると少しずつ勉強が楽しくなっていきました。そして知り合いから「松山にある高校の編入試験を受けてみたら」と誘われ、試験を受け、結果合格。松山の高校に通うことになりました。

人の心をより知りたい

江場秀志として応募した「午後の祠り」。第9回すばる文学賞を受賞

カトリック系の高校ということもあり、外国人の先生が在籍していました。スペイン系の神父様たちが黒衣の神父服のまま、サッカーボールを蹴りあっている様子を見ることも。高校卒業後は信州大学医学部に進み「人と少し違う自分のことをもっとよく知りたい」と思い精神科を選択しました。 小説を読むのが好きだったので、学生時代には小説などを掲載する同人雑誌「屋上」に関わっていました。仲間たちが書いた小説を読んだり、人前で朗読をすることもありました。そのうちに自分も小説を書きたいと考えるようになり、執筆を開始。そこには「人の心をもっと知りたい」という思いもありました。 大学での学位論文をまとめた後、30代初めに家族と共に沖縄に引っ越し、精神科医として沖縄の病院に勤務しました。そこで小説を書く仲間と出会い、毎月お互いが書いた小説を持ち寄り、批評をしあい、刺激を貰いました。このとき「文学賞に応募してみたらどうか」と誘われたので幾つか応募。1987年に「午後の祠り」で第9回すばる文学賞を受賞することができました。仲間と交流する時間はとても貴重でした。

精神科医として研究を進める

2011年に研究結果をまとめ出版した著書「戦後派作家たちの病跡」が日本病跡学会賞を受賞しました

40歳のとき母校の精神医学教室に戻り研究を続け、1999年に国立小諸療養所に赴任し、2003年所長に就任。病院の名称変更後、国立病院機構小諸高原病院の院長として8年間務めました。2005年に心神喪失者医療観察法が施行された際、小諸高原病院が入院医療機関に指定されると、地元で反対運動が起こりました。当時の長野県知事や市長など多くの人との対話、病棟見学会なども行い、地域の人に病院を理解していただけるように尽力しました。病院スタッフもより良い病院にしていこうと勉強を重ねました。多くの人の理解や協力により今日があると思っています。 現在は名誉院長として週に一度診察をしています。また、精神科医として研究にも取り組んでいます。これからもライフワークとして続けていきたいです。