佐久、小諸、上田…東信のことなら、ぷらざINFO
マークはクーポン券付きのお店です
(2011年12月28日)
華道家井出 美鳳(びほう)さん
1944年旧臼田町生まれ 62年草月流入門 81年草月造形科〈陶芸〉入門 84年から八ヶ岳高原ロッジで花をいけ始める 95年草月会長野県支部長就任 98年第36回朝日陶芸展入選 現在も草月会長野県支部長を務める 本名・美子(よしこ)
野沢南高校に通っていた3年間は、朝から晩までソフトボール三昧でした。小学校に入る前から兄とキャッチボールをするのが大好きなおてんば娘で、入部してすぐレギュラーに選ばれました。3年の時にはピッチャーを務め、部として初めて全国大会にも進みました。コーチの先生が「やるからには勝て」と確たる目標を持たせてくれたので、どれだけ練習しても苦にならなかったのを覚えています。草月流と出会ったのも高校時代。当時、華道部の顧問をされていた国語の先生が、校内のあちこちにさりげなく花をいけていました。当時は別流派の華道を習っていたのですが、空間使いから色彩まで、この先生の作品にすっかり惹きつけられ、結局、高校を卒業してすぐ草月流に入門しました。ですから、今の自分の基礎はすべて高校時代に培われたといえるでしょう。この秋に百周年を迎えた母校で、今は自分が華道部を教え、さらに節目の年を祝う記念のいけこみができたことに、大きな縁を感じずにはいられません。
卒業後は上京し、渋谷のデパートに勤めました。けれども働くうちに目標を見失い、先輩には「そんなことを考えるのはまだ早い」なんて叱られもしましたが、その時には既に、花ひと筋で生きていこうと決意するまでになっていました。もともと目標を定めたらまっしぐらに走るタイプ。両親からは反対されましたが、兄の後押しもあり、20歳の年から、実家で生徒を教えながら東京の教室に通う日々が始まりました。それから40年、八ヶ岳高原ロッジでのいけこみをはじめ、長野オリンピックのウェルカムパーティや東京駅の「銀の鈴」、丸の内北口、安曇野アートヒルズでのいけこみなど、世界トップレベルの芸術に触れられる大きな体験ができましたが、一方で、命にかかわる大病もしました。10年ほど前、東京銀座での個展を終えた頃に、大腸がんが見つかったのです。既に肝臓にも転移していて、5年後には30パーセントの生存確率といわれるほど進んでいました。けれども、ちょうど八ヶ岳高原ロッジでのいけこみが佳境に入っていた時期。仕事をやめたり、誰にも負担をかけたりしたくなかったので、家族にも親類にも打ち明けず、人前では平気なふりをして日常生活を続けていました。その頃は朝日陶芸展へ出す作品の制作もしていて身体的にも精神的にも辛かったですが、この経験を経て、どんな時でも「一度死んだ身だから、悔いのないようにやろう」と思えるようになった気がします。幸い病は完治し、今年4月には東京の草月会館で大きな個展を開くこともできました。開催を勧めてくださった御年97歳の先生には「あと30年あるね」と言われましたから、まだまだ花の道を極めていきたいと思っています。
もともと「作る」という作業が好きな性分。土いじりが嫌いでないので、自宅の近くに畑があるのを幸いに、野菜も作品に使う花も一から自分の手で育てています。今は野沢菜や白菜が大きくなっていますし、秋に採れたピーナッツや紫芋などは一度加工し、冷凍して少しずつ使います。畑に電気を引いて、冷凍庫を置いているので、便利なんですよ(笑)。料理も好きなので、たっぷり仕込んだお漬物やジャムを生徒さんやお客さんのお土産にして、喜んでもらえるのが何よりの楽しみ。教室がある日でも、朝は5時から起きて、ことこと豆を煮ています。1日は誰でも同じ24時間しかないんだから、大事に使わないともったいないと思っているんです。
«PREV
NEXT»
月刊ぷらざ編集部(株式会社信州広告社)
Copyright(c) saac.co.ltd All Rights Reserved.
井出 美鳳(びほう)さん
1944年旧臼田町生まれ 62年草月流入門 81年草月造形科〈陶芸〉入門 84年から八ヶ岳高原ロッジで花をいけ始める 95年草月会長野県支部長就任 98年第36回朝日陶芸展入選 現在も草月会長野県支部長を務める 本名・美子(よしこ)
すべての始まりは高校時代
野沢南高校に通っていた3年間は、朝から晩までソフトボール三昧でした。小学校に入る前から兄とキャッチボールをするのが大好きなおてんば娘で、入部してすぐレギュラーに選ばれました。3年の時にはピッチャーを務め、部として初めて全国大会にも進みました。コーチの先生が「やるからには勝て」と確たる目標を持たせてくれたので、どれだけ練習しても苦にならなかったのを覚えています。
草月流と出会ったのも高校時代。当時、華道部の顧問をされていた国語の先生が、校内のあちこちにさりげなく花をいけていました。当時は別流派の華道を習っていたのですが、
空間使いから色彩まで、この先生の作品にすっかり惹きつけられ、結局、高校を卒業してすぐ草月流に入門しました。ですから、今の自分の基礎はすべて高校時代に培われたといえるでしょう。この秋に百周年を迎えた母校で、今は自分が華道部を教え、さらに節目の年を祝う記念のいけこみができたことに、大きな縁を感じずにはいられません。
花の世界をまっすぐに生きる
卒業後は上京し、渋谷のデパートに勤めました。けれども働くうちに目標を見失い、先輩には「そんなことを考えるのはまだ早い」なんて叱られもしましたが、その時には既に、花ひと筋で生きていこうと決意するまでになっていました。もともと目標を定めたらまっしぐらに走るタイプ。両親からは反対されましたが、兄の後押しもあり、20歳の年から、実家で生徒を教えながら東京の教室に通う日々が始まりました。
それから40年、八ヶ岳高原ロッジでのいけこみをはじめ、長野オリンピックのウェルカムパーティや東京駅の「銀の鈴」、丸の内北口、安曇野アートヒルズでのいけこみなど、世界トップレベルの芸術に触れられる大きな体験ができましたが、一方で、命にかかわる大病もしました。10年ほど前、東京銀座での個展を終えた頃に、大腸がんが見つかったのです。既に肝臓にも転移していて、5年後には30パーセントの生存確率といわれるほど進んでいました。けれども、ちょうど八ヶ岳高原ロッジでのいけこみが佳境に入っていた時期。仕事をやめたり、誰にも負担をかけたりしたくなかったので、家族にも親類にも打ち明けず、人前では平気なふりをして日常生活を続けていました。その頃は朝日陶芸展へ出す作品の制作もしていて身体的にも精神的にも辛かったですが、この経験を経て、どんな時でも「一度死んだ身だから、悔いのないようにやろう」と思えるようになった気がします。
幸い病は完治し、今年4月には東京の草月会館で大きな個展を開くこともできました。開催を勧めてくださった御年97歳の先生には「あと30年あるね」と言われましたから、まだまだ花の道を極めていきたいと思っています。
もともと「作る」という作業が好きな性分。土いじりが嫌いでないので、自宅の近くに畑があるのを幸いに、野菜も作品に使う花も一から自分の手で育てています。今は野沢菜や白菜が大きくなっていますし、秋に採れたピーナッツや紫芋などは一度加工し、冷凍して少しずつ使います。畑に電気を引いて、冷凍庫を置いているので、便利なんですよ(笑)。料理も好きなので、たっぷり仕込んだお漬物やジャムを生徒さんやお客さんのお土産にして、喜んでもらえるのが何よりの楽しみ。教室がある日でも、朝は5時から起きて、ことこと豆を煮ています。1日は誰でも同じ24時間しかないんだから、大事に使わないともったいないと思っているんです。