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(2021年2月22日)
ながおか くにと 1940年佐久市野沢生まれ 野沢北高等学校、多摩美術大学デザイン科卒業 グラフィックデザイナーを経て25歳でドイツの西ベルリンに渡り銅版画制作を開始 国際版画ビエンナーレ展グランプリ受賞など世界的に高い評価を受ける 帰国後は古和紙などによる作品制作や「拓本プロジェクト」などを展開する 京都精華大学名誉教授
幼い頃から遺跡に興味があり、矢尻や土器のかけらを見つけるためにあちこち掘り起こすのが好きな少年でした。小学校高学年の時、御代田周辺で起きた土砂崩れの後に現れた断層を見たことも芸術家としての活動につながるきっかけだったように思います。
大学卒業後は東京でグラフィックデザイナーとして3年間働き、その後、地球規模で活動したいと思い、1966年、25歳の時にドイツの西ベルリンへ渡りました。パリやニューヨークではなく、日本人がいないところが刺激的だと思ったからです。東西冷戦さなかのベルリンの壁に囲まれた緊張感漂う中、ベルリン国立アカデミー、ベルリン国立芸術大学で銅版画と絵画を学びました。その後、銅版画家として国際的評価をいただき、世界を駆け巡る活動をしてきました。自分は長男ですが、両親のことは浅間山を撮っていた弟にまかせ、14年間一度も帰らず芸術に没頭しました。
1989年にベルリンの壁が崩れ、社会が大きな変動期に入り、芸術活動が厳しくなり91年に帰国。兵庫県朝来市和田山町にアトリエを構え、京都精華大学版画専攻の教官として生徒を育てながら創作を続けました。この頃、古和紙・手漉き和紙によるペーパーワーク「大地の脱皮」「石の脱皮」シリーズを手掛けました。2000年代はドイツ、チェコ、アルメニアなどの墓碑を拓本で記録する「拓本プロジェクト」を行ったり、スピリチュアルスポットでのインスタレーションなど様々な仕事に挑戦してきました。
今年、生まれ故郷の佐久で展覧会を開催しました。「私は浅間山を去ったが、私から浅間山が離れることは決してなかった」という自身のキャッチフレーズにもあるように、50年間国内外色々な場所で活動してきましたが、根底には常に浅間山を感じていました。生みの母親と浅間山、ふたりの母親が自分にはいると思っています。それほど人生に深い刻印を記した浅間山をテーマにした展覧会でした。「地球」を生命体に例えると、地表は皮膚。人類の経済発展が結果として地表を傷つけてしまっている姿を描いた作品も展示しました。今、ウイルスや自然災害により人類の生活が脅かされています。経済優先の社会から、ここで仕切り直して、これからの人類のために考えていかなくてはいけないというメッセージを込めました。このような時代だからこそ、アートの持つ意味を考え、表現したつもりです。世界中を駆け巡り、生涯芸術という仕事に取り組んできた佐久出身の作家の活動を知っていただける貴重な機会になったと思います。
佐久の香坂山遺跡で出土した石器は、日本列島最古のものと見られる可能性が高く、日本人のルーツが佐久にあったのではないかという説もあります。また、佐久は宇宙とのつながりも深く、遺跡という過去の財産、宇宙という未来の財産の両方を持ち合わせています。遺跡と宇宙という大きな2つの財産の間に生まれる現代美術。この地で芸術の花が開くことを願っています。
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ながおか くにと 1940年佐久市野沢生まれ 野沢北高等学校、多摩美術大学デザイン科卒業 グラフィックデザイナーを経て25歳でドイツの西ベルリンに渡り銅版画制作を開始 国際版画ビエンナーレ展グランプリ受賞など世界的に高い評価を受ける 帰国後は古和紙などによる作品制作や「拓本プロジェクト」などを展開する 京都精華大学名誉教授
冷戦下の西ベルリンへ
幼い頃から遺跡に興味があり、矢尻や土器のかけらを見つけるためにあちこち掘り起こすのが好きな少年でした。小学校高学年の時、御代田周辺で起きた土砂崩れの後に現れた断層を見たことも芸術家としての活動につながるきっかけだったように思います。
大学卒業後は東京でグラフィックデザイナーとして3年間働き、その後、地球規模で活動したいと思い、1966年、25歳の時にドイツの西ベルリンへ渡りました。パリやニューヨークではなく、日本人がいないところが刺激的だと思ったからです。東西冷戦さなかのベルリンの壁に囲まれた緊張感漂う中、ベルリン国立アカデミー、ベルリン国立芸術大学で銅版画と絵画を学びました。その後、銅版画家として国際的評価をいただき、世界を駆け巡る活動をしてきました。自分は長男ですが、両親のことは浅間山を撮っていた弟にまかせ、14年間一度も帰らず芸術に没頭しました。
1989年にベルリンの壁が崩れ、社会が大きな変動期に入り、芸術活動が厳しくなり91年に帰国。兵庫県朝来市和田山町にアトリエを構え、京都精華大学版画専攻の教官として生徒を育てながら創作を続けました。この頃、古和紙・手漉き和紙によるペーパーワーク「大地の脱皮」「石の脱皮」シリーズを手掛けました。2000年代はドイツ、チェコ、アルメニアなどの墓碑を拓本で記録する「拓本プロジェクト」を行ったり、スピリチュアルスポットでのインスタレーションなど様々な仕事に挑戦してきました。
根底にはいつも浅間山
今年、生まれ故郷の佐久で展覧会を開催しました。「私は浅間山を去ったが、私から浅間山が離れることは決してなかった」という自身のキャッチフレーズにもあるように、50年間国内外色々な場所で活動してきましたが、根底には常に浅間山を感じていました。生みの母親と浅間山、ふたりの母親が自分にはいると思っています。それほど人生に深い刻印を記した浅間山をテーマにした展覧会でした。「地球」を生命体に例えると、地表は皮膚。人類の経済発展が結果として地表を傷つけてしまっている姿を描いた作品も展示しました。今、ウイルスや自然災害により人類の生活が脅かされています。経済優先の社会から、ここで仕切り直して、これからの人類のために考えていかなくてはいけないというメッセージを込めました。このような時代だからこそ、アートの持つ意味を考え、表現したつもりです。世界中を駆け巡り、生涯芸術という仕事に取り組んできた佐久出身の作家の活動を知っていただける貴重な機会になったと思います。
芸術の花よ、佐久で開け
佐久の香坂山遺跡で出土した石器は、日本列島最古のものと見られる可能性が高く、日本人のルーツが佐久にあったのではないかという説もあります。また、佐久は宇宙とのつながりも深く、遺跡という過去の財産、宇宙という未来の財産の両方を持ち合わせています。遺跡と宇宙という大きな2つの財産の間に生まれる現代美術。この地で芸術の花が開くことを願っています。