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長野県無形文化財 刀剣作家 宮入 法廣さん

宮入法廣さん長野県無形文化財 刀剣作家
宮入 法廣さん
1956年宮入清宗氏を父、人間国宝の宮入行平氏を伯父として立科町に生まれる 78年國學院大卒業後、隅谷正峯氏に師事 83年独立後、95年無鑑査に認定 2010年新作名刀展で最高の「正宗賞」を受賞 11年県無形文化財に認定

名門出身ゆえの反発心

宮入は隅谷・月山と並んで、新作刀の三大流派といわれています。その名匠の仕事を小さい頃から傍らで見ていたので、もちろん大きく影響を受けているのですが、若い頃は逆に「宮入」の名前で仕事をすることに反発を感じていました。刀作りに全く関係のない文学部に入学したのも、在学中に別の仕事を模索したのも、そのためです。一時は会津や宗像など、焼き物の窯元もずいぶんと回ったものです。ただ自分の性格上、会社勤めは向いていないと感じていたので(笑)、ものづくりの道に入るだろうとは漠然と思っていました。

好奇心旺盛な師匠に惹かれて

師匠の隅谷正峯先生に出会ったのは、九谷焼の窯元を回っていた時。偶然、飛び込みで松任市(現・白山市)内の鍛錬場にお邪魔したのですが、話を聞くにつれ「この人なら、一生ついて仕事を覚えられる」と感じたのです。
当時、先生は55歳。立命館大の工学部を出られていて、いわゆる職人というイメージからは遠い学究タイプの人でした。刀匠の世界では伝統を踏襲することが多いのですが、先生は好奇心が強く、独自の刃紋を開発したり、古刀の地鉄技法を再現したり、さまざまな研究をされていたのです。
住み込みで5年間、隣の小料理屋からお囃子が聞こえるような6畳1間の弟子部屋で、3人、多い時は4人の兄弟弟子と一緒に寝起きしていました。技術は「盗んで覚える」世界。日のあるうちは鍛錬場の掃除と師匠の下仕事にあけくれ、自分の練習は師匠の手伝いが終わった夕飯後から夜9時の間に、鍛冶場を借りて「いたずら」と称してやっていました。気を抜く場所がなく、苦労もたくさんあった気がしますが、振り返れば、技術を覚えることが楽しかったことしか思い出せません。

宮入法廣さんあらゆる方法で刀の世界を究める

自身の試みとして、5年前から作風を変えています。華やかな「備前伝」から、自然な力強さをもつ「相州伝」へ。器に例えれば、染付けと土ものくらいの差があるのですが、修業時代を含めて30年近く研鑽してきた流派や作風をあえて越えることで、より技術に幅をもたせ、古い時代の刀と比べても、面白い仕事ができるのではないかと思っています。
また、日本刀とは別に、刀子も手掛けています。刀子とは、奈良・平安時代の貴族が贅を尽くして身に着けていた小刀のこと。染めた象牙に文様を彫り出した「撥鏤」という手法や、紫檀・白檀の鞘に宝石や装飾金具をあしらった、緻密で精巧な細工が魅力です。2009年には宮内庁の依頼を受け、正倉院に収められた宝物の刀子を復元しました。当時使われていた鉄については分析されていないので、自分のこれまでの経験から技法や材質を推測し、当時の雰囲気をできる限り再現しました。難しく、だからこそやりがいのある仕事でした。
なぜわざわざ作風を変えるのか、仕事の枠を超えて撥鏤や彫金までするのかと聞かれれば、ただ好きだからとしかいえません。今、東御市の鍛錬場には27歳の弟子がひとりいますが、刀匠を目指す若い人には「苦労しても自分で研鑽を続けろ」と伝えたいです。下積み時代が苦しくても、研鑽をやめなければそれが作品に現れ、楽しさにも通じると思います。
趣味といえば以前はよく釣りに出かけていたのですが、最近は忙しくて時間が作れません。代わりに鍛錬場の回りを散歩するのが日課です。作刀は座り仕事なので、上半身は鍛えられても、意外と下半身を使わないんです。仕事を終えた後は、北御牧の田んぼの中をのんびり歩いていますよ。