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(2011年11月30日)
軽井沢町長藤巻 進さん1951年軽井沢生まれ 81年有限会社塩沢遊園取締役支配人 89年社団法人軽井沢青年会議所理事長 95年~2007年4月軽井沢町議会議員を務め、同年5月~2010年11月軽井沢観光協会会長 11年2月軽井沢町長就任、現在に至る
1951(昭和26)年といえば、第2次世界大戦が終わりまだ6年しか経っていない頃。実家は農家で、5人兄弟の末っ子として生まれ、いつもお腹を空かせていたのを覚えています。当時は進駐軍のジープが往来し、ハローと声をかけてはチューインガムやチョコレートを貰うといった映画のワンシーンさながらの光景が当たり前でした。お小遣いを手に中軽井沢のつるや商店へ出かけてはコマや凧を買うのが楽しみでしたし、初めてインスタントラーメンを食べた時の感動は今も覚えています。何もない時代でしたから兄と色々な物を作るのも好きでした。見よう見真似でベッドを作りましたが、寝返りを打つたびにギシギシきしむような出来でした。しかし、この頃に培われた創造力が、成長の過程においても、また今現在も大きく役立っていると思います。
幼少期に足にヤケドを負い、長く病院に通う生活が続いていたため、どちらかといえば大人しい静かなタイプの子どもでした。高校時代にはギターを買い、仲間とフォークグループを組みました。学生運動が盛んな時期に大学へ進学しましたが、ヤケド治療のために中退し帰郷。その後は叔父と一緒に塩沢遊園の経営を手がけるようになりました。転機となったのは1986年。叔父が亡くなり、経営を見直す中で、それまで入場無料だった塩沢遊園をリニューアルし、入場料制にするとともに、前年の85年には軽井沢高原文庫をオープンさせました。この時、堀多恵さんにお願いをして、堀辰雄山荘[1412番山荘]を譲っていただくことになったのですが、この出来事こそがその後の色々な方との出会いにつながっていったのです。軽井沢・夏の家[アントニン・レーモンド別荘]、有島武郎別荘[浄月庵]、野上弥生子書斎、明治四十四年館[旧・軽井沢郵便局舎]、睡鳩荘[旧朝吹山荘]などの移築復元、すべてが人との巡り合わせによるものでした。
28歳~40歳まで軽井沢青年会議所に所属し、12年間徹底的に「町づくり」について考えました。地域を盛り上げ発展させる社会開発や自身を高める人間開発に取り組み、「町づくり」の延長線という観点から、37歳の時には町長選にもチャレンジしました。結果は佐藤正人氏の圧倒的な力に及びませんでしたが、佐藤氏の器の大きさを改めて感じることができました。1995年から2007年4月までの12年間には軽井沢町議会議員を務め、同年5月に軽井沢観光協会会長に就任しました。どの瞬間、どの立場にあっても考える根幹は常に「町づくり」。様々な経験をしたことにより、多面的に「軽井沢の町づくり」を考えられるようにもなりました。
2011年、軽井沢町長に就任しました。町民が軽井沢に住むことに誇りを持ち、次世代の子どもたちが「軽井沢に住みたい」と思える「町づくり」を目指しています。今年は東日本大震災があり、多くのことを学びました。日本人は依存心が高く、「誰かがやってくれる」と思いがちですが、今回の震災を機に、一人ひとり「覚悟して生きる」ことが必要だと痛感しました。家族から「仕事しながら遊んでいるみたい」と言われることがよくあります。実際自分でも、趣味は仕事!?と思えるほど、今熱中して取り組んでいる真っ最中です。
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藤巻 進さん
1951年軽井沢生まれ 81年有限会社塩沢遊園取締役支配人 89年社団法人軽井沢青年会議所理事長 95年~2007年4月軽井沢町議会議員を務め、同年5月~2010年11月軽井沢観光協会会長 11年2月軽井沢町長就任、現在に至る
創造力を培った少年時代
1951(昭和26)年といえば、第2次世界大戦が終わりまだ6年しか経っていない頃。実家は農家で、5人兄弟の末っ子として生まれ、いつもお腹を空かせていたのを覚えています。当時は進駐軍のジープが往来し、ハローと声をかけてはチューインガムやチョコレートを貰うといった映画のワンシーンさながらの光景が当たり前でした。お小遣いを手に中軽井沢のつるや商店へ出かけてはコマや凧を買うのが楽しみでしたし、初めてインスタントラーメンを食べた時の感動は今も覚えています。
何もない時代でしたから兄と色々な物を作るのも好きでした。見よう見真似でベッドを作りましたが、寝返りを打つたびにギシギシきしむような出来でした。しかし、この頃に培われた創造力が、成長の過程においても、また今現在も大きく役立っていると思います。
人との出会い、巡り合わせ
幼少期に足にヤケドを負い、長く病院に通う生活が続いていたため、どちらかといえば大人しい静かなタイプの子どもでした。高校時代にはギターを買い、仲間とフォークグループを組みました。学生運動が盛んな時期に大学へ進学しましたが、ヤケド治療のために中退し帰郷。その後は叔父と一緒に塩沢遊園の経営を手がけるようになりました。
転機となったのは1986年。叔父が亡くなり、経営を見直す中で、それまで入場無料だった塩沢遊園をリニューアルし、入場料制にするとともに、前年の85年には軽井沢高原文庫をオープンさせました。この時、堀多恵さんにお願いをして、堀辰雄山荘[1412番山荘]を譲っていただくことになったのですが、この出来事こそがその後の色々な方との出会いにつながっていったのです。軽井沢・夏の家[アントニン・レーモンド別荘]、有島武郎別荘[浄月庵]、野上弥生子書斎、明治四十四年館[旧・軽井沢郵便局舎]、睡鳩荘[旧朝吹山荘]などの移築復元、すべてが人との巡り合わせによるものでした。
28歳~40歳まで軽井沢青年会議所に所属し、12年間徹底的に「町づくり」について考えました。地域を盛り上げ発展させる社会開発や自身を高める人間開発に取り組み、「町づくり」の延長線という観点から、37歳の時には町長選にもチャレンジしました。結果は佐藤正人氏の圧倒的な力に及びませんでしたが、佐藤氏の器の大きさを改めて感じることができました。
1995年から2007年4月までの12年間には軽井沢町議会議員を務め、同年5月に軽井沢観光協会会長に就任しました。どの瞬間、どの立場にあっても考える根幹は常に「町づくり」。様々な経験をしたことにより、多面的に「軽井沢の町づくり」を考えられるようにもなりました。
覚悟して生きる
2011年、軽井沢町長に就任しました。町民が軽井沢に住むことに誇りを持ち、次世代の子どもたちが「軽井沢に住みたい」と思える「町づくり」を目指しています。
今年は東日本大震災があり、多くのことを学びました。日本人は依存心が高く、「誰かがやってくれる」と思いがちですが、今回の震災を機に、一人ひとり「覚悟して生きる」ことが必要だと痛感しました。
家族から「仕事しながら遊んでいるみたい」と言われることがよくあります。実際自分でも、趣味は仕事!?と思えるほど、今熱中して取り組んでいる真っ最中です。