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(2012年4月28日)
ピアニスト山添 啓さん
1952年東京都練馬区生まれ 桐朋学園大学音楽科卒業後、1976年に渡仏 ミローズ・マジャン氏らに学んだ後、イタリア・ミラノに移住 アントニオ・ヴィヴァルディ音楽院講師を務める傍ら、欧州・日本各地で演奏会を開く 2003年帰国、05年より佐久市に移住
ピアノを始めたのは小学3年生の時。当時、妹が習っていたバレエを観て、自分もやりたいとせがんだのですが、「それだけはやめて」と、母から替わりにあてがわれたのがピアノでした。すぐに桐朋学園大学主宰の「子供のための音楽教室」に通うようになりましたが、始めた年の遅さから1番下のクラスへ編入されたのが辛く、帰り道に小遣いで買うお菓子が楽しみで通っていたようなものでした。教室からは高校の音楽科に進む生徒が多い中、都立高校の普通科に進学。それでも大学の音楽科へ進めたのは、先生に恵まれたおかげだと思っています。もっとも、今でも自分がプロの演奏家であると強く意識しているわけではありません。音楽はプロやアマという枠で括れるものではないはずなので。
卒業後はパリに留学。郊外の一軒家に下宿し、レッスンの合間を縫って、ノートルダム寺院のオルガンコンサートに出かけたり、シネマテークに通い詰めたり、毎週日曜には美術館を訪れ、とにかくパリの街中を歩き廻った2年間でした。その後ヨーロッパと日本のメソッドの壁に突き当たり、ピアノを辞めようかと悩んだ時期もありましたが、一方で、非常に感銘を与えられたピアニストと出会えた時でもありました。それが当時80歳であったクラウディオ・アラウ氏。南米チリ出身の彼の、温かく、スケールの大きな演奏に心打たれ、その大らかなラテン気質といったものを求めるうちに、パリから南仏へ、そしてイタリアへと移住し、とうとうイタリア・ミラノで20年以上を過ごしました。
2003年に帰国後、縁あって佐久に移住して7年。見よう見まねで始めた農業は少しずつかたちになり、「オルトK(カッパ)」の名で農協や近隣のレストランに出荷したりしています。フィノッキオ、ラディッキオなど珍しいイタリア野菜がおもな作物なので、食べ方の説明書きもつけています。今では日の出ているうちは畑、日が暮れてからピアノに向かうという毎日です。無農薬、有機栽培にこだわるのは、子どもの頃に食べていた野菜の味が本物だと感じているから。それぞれの個性がはっきりした本当のおいしさを味わいたいために、草取りに追われながら、畑での仕事を続けています。音楽は人間が脳で創造したもの。そして演奏は一瞬で消えてしまう特殊な芸術です。一方で農業は人知の及ばない自然の力、ものを生み出す実感を味わえるもの。その2つのバランスが今、ちょうど良いのでしょう。若い頃のようにただ上手く弾こうとするより、作曲者や作品に共感し、納得できる演奏を心がけるようになり、聴いてくださる方からも「今のほうがいい」という反応を頂いています。自然を感じる作業は子どもの頃から好き。山で拾った木から動物の姿を彫ったり、ドアの取っ手を作ったりするのは楽しみのひとつです。グランドピアノを置いた部屋の棚にも、小さな木彫りの動物が並んでいます。同じ棚には、やはり趣味で彫った篆刻や畑を耕している時に見つけた縄文時代の矢じりも。最近では、旅行先のウズベキスタンで出会った草ボウキがとても使いやすかったので、自分でもホウキ草を育てて同じものを作ろうと奮闘中です。
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山添 啓さん
1952年東京都練馬区生まれ 桐朋学園大学音楽科卒業後、1976年に渡仏 ミローズ・マジャン氏らに学んだ後、イタリア・ミラノに移住 アントニオ・ヴィヴァルディ音楽院講師を務める傍ら、欧州・日本各地で演奏会を開く 2003年帰国、05年より佐久市に移住
本当は踊りたかった子ども時代
ピアノを始めたのは小学3年生の時。当時、妹が習っていたバレエを観て、自分もやりたいとせがんだのですが、「それだけはやめて」と、母から替わりにあてがわれたのがピアノでした。すぐに桐朋学園大学主宰の「子供のための音楽教室」に通うようになりましたが、始めた年の遅さから1番下のクラスへ編入されたのが辛く、帰り道に小遣いで買うお菓子が楽しみで通っていたようなものでした。教室からは高校の音楽科に進む生徒が多い中、都立高校の普通科に進学。それでも大学の音楽科へ進めたのは、先生に恵まれたおかげだと思っています。
もっとも、今でも自分がプロの演奏家であると強く意識しているわけではありません。音楽はプロやアマという枠で括れるものではないはずなので。
ヨーロッパでの豊かな日々
卒業後はパリに留学。郊外の一軒家に下宿し、レッスンの合間を縫って、ノートルダム寺院のオルガンコンサートに出かけたり、シネマテークに通い詰めたり、毎週日曜には美術館を訪れ、とにかくパリの街中を歩き廻った2年間でした。
その後ヨーロッパと日本のメソッドの壁に突き当たり、ピアノを辞めようかと悩んだ時期もありましたが、一方で、非常に感銘を与えられたピアニストと出会えた時でもありました。それが当時80歳であったクラウディオ・アラウ氏。南米チリ出身の彼の、温かく、スケールの大きな演奏に心打たれ、その大らかなラテン気質といったものを求めるうちに、パリから南仏へ、そしてイタリアへと移住し、とうとうイタリア・ミラノで20年以上を過ごしました。
2003年に帰国後、縁あって佐久に移住して7年。見よう見まねで始めた農業は少しずつかたちになり、「オルトK(カッパ)」の名で農協や近隣のレストランに出荷したりしています。フィノッキオ、ラディッキオなど珍しいイタリア野菜がおもな作物なので、食べ方の説明書きもつけています。今では日の出ているうちは畑、日が暮れてからピアノに向かうという毎日です。無農薬、有機栽培にこだわるのは、子どもの頃に食べていた野菜の味が本物だと感じているから。それぞれの個性がはっきりした本当のおいしさを味わいたいために、草取りに追われながら、畑での仕事を続けています。
音楽は人間が脳で創造したもの。そして演奏は一瞬で消えてしまう特殊な芸術です。一方で農業は人知の及ばない自然の力、ものを生み出す実感を味わえるもの。その2つのバランスが今、ちょうど良いのでしょう。若い頃のようにただ上手く弾こうとするより、作曲者や作品に共感し、納得できる演奏を心がけるようになり、聴いてくださる方からも「今のほうがいい」という反応を頂いています。
自然を感じる作業は子どもの頃から好き。山で拾った木から動物の姿を彫ったり、ドアの取っ手を作ったりするのは楽しみのひとつです。グランドピアノを置いた部屋の棚にも、小さな木彫りの動物が並んでいます。同じ棚には、やはり趣味で彫った篆刻や畑を耕している時に見つけた縄文時代の矢じりも。最近では、旅行先のウズベキスタンで出会った草ボウキがとても使いやすかったので、自分でもホウキ草を育てて同じものを作ろうと奮闘中です。