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(2014年1月31日)
●プロスノーボーダー 橋本 通代さん
1972年大阪府生まれ、軽井沢在住 1996年カナダでスノーボードを始める 99年プロ資格取得、ナショナルチーム入り 2001年FISワールドカップ2位 02年ソルトレイクシティオリンピック出場12位(ファイナリスト) キララキャンプ」主宰 「KIRARA Café&Rental(キララカフェ&レンタル)」(軽井沢)勤務
実を言うと、子どもの頃から運動や体育は苦手。赤毛のアンに憧れる文系の少女でした。それが大学時代に友人からスキーに誘われたのをきっかけに、ゲレンデに通い詰めるようになったのです。その友人は朝から日暮れまでみっちり練習する大変なスパルタだったのですが、そのおかげで少し上手に滑れるようになってハマっちゃって(笑)。 その後の5シーズンは休みのたびに白馬にこもり、SAJスキー検定1級を取得。モーグルが好きで、24歳の時にはエクストリームの大会に出るためにカナダのウィスラーへも出かけました。このときはプロスキーヤーを目指していたのですが、現地に着いて1週間もたたないうちにスノーボードに転向したんです。ホームステイ先の家族が全員ボーダーだったことや、ウィスラーのフィールドがすごくボーダー向きだったこともあって、ボードの魅力に取り憑かれたんですね。
ゼロからの再スタートで、大学まで出してくれた親に申し訳ないという気持ちが常にありました。だからこそ「絶対世界に通用するボーダーになる!」と決めて、がむしゃらにやってきたともいえます。3年後にはプロ戦で優勝し、ナショナルチームにも参加。29歳でソルトレイクオリンピックの舞台に立てたのも、負けん気と、家族や地元の後援会など多くの人の支えがあったおかげだと思っています。 ところが、オリンピックの競技会場を後にした瞬間に、あれだけ好きだったスノーボードを「もうやりたくない」と思ってしまったのです。後で専門家の診断を受けたら「燃え尽き症候群」だと言われましたが、オリンピック後の目標を見失って心がカラカラに乾いてしまった状態でした。 その心理状態のまま練習を続けていたために、ある日「頸椎損傷」という大きなケガをしてしまいました。大手術を受けた後、4カ月の間、自宅でずっと療養する日々でしたが、けがをして心からホッとした自分がいたのです。ゆっくり休んで心にも栄養を与えながら自分を見つめるうちに、「大好きな子どもたちと関わっていきたい」という新しい夢が浮かんできました。
現在は、「キララキャンプ」という子ども向けの宿泊型スノーボード教室を主宰しています。1人ひとりが「キラキラ輝けるように」という願いを込めて名付けたこの教室では、プロやオリンピックを目指す子も、初めて板に乗るという子も、自分なりに雪や仲間との交流を全力で楽しんでいます。 もともと子どもと触れ合うことが好きな自分にとって、スノーボードは子どもたちに自分の思いを伝える「マイク」のような存在。この10年でスノーボードを通して得てきた喜びや楽しさ、緊張感など、たくさんのことを子どもたちに伝えていきたいですね。 軽井沢には2012年の夏に越してきました。自然が多くて、東京に出やすい、しかもウィスラーと姉妹都市!ということで、家族ですぐに定住を決めたんです。「キララキャンプ」は色々なスキー場で開催していますが、全国のジュニアボーダーたちの交流拠点になったらいいなと考えています。
月刊ぷらざ編集部(株式会社信州広告社)
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1972年大阪府生まれ、軽井沢在住 1996年カナダでスノーボードを始める 99年プロ資格取得、ナショナルチーム入り 2001年FISワールドカップ2位 02年ソルトレイクシティオリンピック出場12位(ファイナリスト) キララキャンプ」主宰 「KIRARA Café&Rental(キララカフェ&レンタル)」(軽井沢)勤務
文学少女がプロボーダーへ
実を言うと、子どもの頃から運動や体育は苦手。赤毛のアンに憧れる文系の少女でした。それが大学時代に友人からスキーに誘われたのをきっかけに、ゲレンデに通い詰めるようになったのです。その友人は朝から日暮れまでみっちり練習する大変なスパルタだったのですが、そのおかげで少し上手に滑れるようになってハマっちゃって(笑)。
その後の5シーズンは休みのたびに白馬にこもり、SAJスキー検定1級を取得。モーグルが好きで、24歳の時にはエクストリームの大会に出るためにカナダのウィスラーへも出かけました。このときはプロスキーヤーを目指していたのですが、現地に着いて1週間もたたないうちにスノーボードに転向したんです。ホームステイ先の家族が全員ボーダーだったことや、ウィスラーのフィールドがすごくボーダー向きだったこともあって、ボードの魅力に取り憑かれたんですね。
オリンピックまでの栄光と試練
ゼロからの再スタートで、大学まで出してくれた親に申し訳ないという気持ちが常にありました。だからこそ「絶対世界に通用するボーダーになる!」と決めて、がむしゃらにやってきたともいえます。3年後にはプロ戦で優勝し、ナショナルチームにも参加。29歳でソルトレイクオリンピックの舞台に立てたのも、負けん気と、家族や地元の後援会など多くの人の支えがあったおかげだと思っています。
その心理状態のまま練習を続けていたために、ある日「頸椎損傷」という大きなケガをしてしまいました。大手術を受けた後、4カ月の間、自宅でずっと療養する日々でしたが、けがをして心からホッとした自分がいたのです。ゆっくり休んで心にも栄養を与えながら自分を見つめるうちに、「大好きな子どもたちと関わっていきたい」という新しい夢が浮かんできました。
現在は、「キララキャンプ」という子ども向けの宿泊型スノーボード教室を主宰しています。1人ひとりが「キラキラ輝けるように」という願いを込めて名付けたこの教室では、プロやオリンピックを目指す子も、初めて板に乗るという子も、自分なりに雪や仲間との交流を全力で楽しんでいます。
軽井沢には2012年の夏に越してきました。自然が多くて、東京に出やすい、しかもウィスラーと姉妹都市!ということで、家族ですぐに定住を決めたんです。「キララキャンプ」は色々なスキー場で開催していますが、全国のジュニアボーダーたちの交流拠点になったらいいなと考えています。