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佐久穂町長 佐々木 定男さん

佐々木定男さん佐久穂町長

佐々木 定男さん

1939年旧・八千穂村上畑生まれ 畑八小・中学校、野沢北高校卒業後、都内の食品卸会社に勤務 59年農業を継ぐため帰郷、65年より酪農を始める 93年八千穂村議会議員初当選 03年八千穂村長就任 05年佐久穂町長就任、現在2期目

 

反発心と向上心をもって

実家は代々、米と養蚕の農家だったため、中学生の頃から農業を継ぐように言われ、担任教師の口添えでようやく高校へ行かせてもらえたほどでした。そんな環境の中でも「もっと勉強したい」「都会を見てみたい」という思いが強く、高校3年の時、自分で就職先を探し、卒業前に東京に出ました。世の中はなべ底不況の真っただ中。社長に直接手紙を書き、ようやく入社した食品材料卸の会社では、パン屋やケーキ屋の御用聞きに走り回る毎日でした。上京する前、高校の担任に「オレが責任もって卒業させるから、卒業式には出てこい」と言われ、1ヶ月分の給料を持って、式の日の直前に八千穂駅に帰ってきたのを、今でも覚えています。
2年間東京で働き、本格的に農業を継いだのは20歳の時。5年後、冬の収入も得られるようにと、地元の先輩と酪農に挑戦。山の木を切り倒し、小さなバックホーで来る日も来る日も開墾を続け、牧草の種をまき、育てるところからのスタートでした。親にも言えない大きな借金をし、「上畑のばか息子」と揶揄されながらも、山の上に牛舎を建て、少しずつ飼う牛の数も増やし、最終的には成牛・仔牛あわせて60頭もの大所帯になりました。

さくだいら人47妻と共に大病を乗り越える

育てた作物がすぐ収入に結び付くわけではないのが、酪農の難しいところでした。牛がいい牧草を食べ、乳となって初めてお金になるのですが、牛乳を多く絞ろうとすると牛は体調を崩します。365日休みなしの毎日でしたが、育てた牛はみな可愛いく、困難が面白さへとかわっていきました。
一番苦労したのは40歳の時、原因不明の大病を患いました。耐え難い腹痛と高熱が続き、ひと月で体重が15㎏も落ちました。結局、牛などの草食動物に寄生するヒルが原因の肝蛭症という病気でした。国内でもほとんど症例がなく、検査で実証されたのも初めてで、医学書の症例にも佐々木定男の名前が載ったことがあるそうです。病気自体にも苦労しましたが、診断がつくまでに1年近い月日を要し、その間収入が途絶えたのが、自営農家にとっては何よりも痛手でした。細身の妻ができる限りやってくれましたが、ほとんどの牛を整理し、借金だけが残りました。家中の引出しから10円玉をかき集め、「これでイワシかサンマが買えるかなあ」と妻に言われた時は本当に辛かったです。しかしこの時、多くの仲間や友人、親戚に助けられたことは決して忘れません。

目指すのは「住んでよかった」と思える町

その後10年酪農を続けた後、キノコ農家に転身し、53歳の春に地元地区選出の村議会議員になりました。父親が村長を務め、辞めた時に家族みんなで「やれ良かった」と万歳をした家柄ですから、本当は政治活動があまり好きではなかったのです(笑)。けれども自分が農業で苦労した分、農家の苦労が実になる手助けを、村政町政でしていきたいと考えています。
05年に八千穂村と佐久町が合併しました。長い間それぞれの自治体でやってきただけに異なるカラーがありますが、両方のいい所を活かし、住民に「ここで暮らしてよかった」と言ってもらえる町にするのが目標です。
休日の楽しみは50歳を過ぎて覚えた鮎釣り。酪農を辞めてからの数年間は、毎年妻と二人で上山田温泉へ出かけ、千曲川で釣り糸を垂れ、休日を満喫していました。妻は7年前に亡くなりましたが、いい思い出です。今では何人にも増えた釣り友だちと一緒に、6月の解禁日を心待ちにしています。