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JA長野厚生連 佐久総合病院長 伊澤 敏さん

伊澤 敏院長●JA長野厚生連 佐久総合病院長 伊澤 敏(さとし)さん

1954年四賀村(現・松本市)生まれ 松本深志高校、東京教育大学農学部卒業後、1980年岐阜大学医学部入学 1986年同大卒、JA長野厚生連佐久総合病院に勤務 大分県下郷診療所所長等を経て、佐久総合病院精神科・心療内科の診療に従事 2010年同院院長就任

 

虫を追って過ごした少年時代

生まれは東筑摩郡旧四賀村の農家。祖父母や曾祖母も共に暮らす大家族の中で、小学生の頃から米作りや野菜作りの手伝いをして育ちました。もっとも学校から帰るとそのまま蜂の巣を探しに行ったり、山で蝶を捕まえたり、家の仕事からは逃げ回ってばかりいましたが。高校時代には博物会と称するいわゆる生物部に入り、将来は昆虫の生態学者になろうと思っていました。 本も好きで、「本を読む暇があるなら草刈ってこい」などと言われながらも、家にある主婦向けの雑誌や週刊誌を片っぱしから読んでいたものです。若月俊一先生の名前を初めて知ったのも10代の頃読んだ「家の光」のインタビュー記事でした。若者の性についてざっくばらんに話されていて、思春期の少年にはとても興味を惹かれる内容だったのです。今振り返れば、昭和20年代に農村部の若者の性に関する詳細なアンケートを取るなど、とても貴重な調査内容だったのですけれど。

 

岐阜大学時代人生を決めた本との出会い

昆虫学者の道を目指して大学は農学部を選びましたが、派閥などに囚われた研究者の世界より人間の生態を研究したほうが面白いと思ったのが、医学部を目指したきっかけです。今すぐ社会に出るよりもっと勉強したいというモラトリアム的な気持ちもあり、アルバイトをしてお金を貯めつつ、2年かけて入学し直しました。 医学部の中でも精神医学を志した理由のひとつは高校時代、アウシュビッツ収容所での体験を綴った「夜と霧」という本と出会ったことです。著者はユダヤ人精神科医のヴィクトール・E・フランクル。限界状況の中での人間の崇高さ、愚かさが克明に描かれている本で、今でも座右の一冊となっています。フロイトも読んでいました。もともと人間の心や行動については興味があったのです。 卒業後は、すぐに佐久総合病院へ研修医として入局しました。実は農学部時代に付き合っていた同級生が若月先生の「村で病気とたたかう」を読んでいて、借りて読むうちに、患者さん第一とする考え方や姿勢にとても感銘を受けたのです。ちなみに若月先生との縁を取り持ってくれた彼女とは、医学部に入ってすぐに結婚しました。

 

目指すのは患者さんのためになる医療連携

今、佐久病院は大きなターニングポイントにあります。基幹医療センターとして、また地域医療センターとして機能するためには、ひとつの病院の中で完結するのではなく、地域の病院や診療所と連携して、地域全体で整った医療体制をつくり上げなくてはなりません。 全国の病院で、医師や看護師をはじめとする医療スタッフの献身的な労働が医療を支えている現実があります。マンパワーを含め医療資源は限られていますから、医療機関同士が助け合い、役割分担しながら患研修医時代者さんにとって一番いい医療連携を実現しなければいけません。例えば今建設中の佐久医療センター(平成25年度開院予定)は、紹介状を持った患者さんや救急車で搬送されてくる患者さんを診る病院です。軽い病気や、安定した慢性の病気を診る病院ではありません。佐久の皆さんには医療機関の特徴をよく知っていただき、上手に利用してもらいたいと思います。