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(2022年7月27日)
とつか しげる 1974年佐久市生まれ 東京農業短期大学醸造学科卒業 2014年戸塚酒造株式会社16代蔵元に就任 2019年軽井沢ウイスキー株式会社を設立
4人兄弟の3番目、江戸時代初頭から続く老舗蔵元の長男として生まれました。典型的な昭和の子どもで、野球とサッカーが好きな活発な子どもでした。幼い頃から蔵人と接する機会が多く、「造り」が当たり前の環境の中で育ったため、高校卒業後は醸造学科のある短期大学に進学。卒業後は東京日本橋にある酒類卸問屋で5年程修業し、戸塚酒造がアメリカへ輸出事業を展開するタイミングで地元に戻りました。
新たな文化発信への思いをのせて、この夏から蒸留開始予定の「軽井沢ウイスキー」
戸塚酒造は1653(承応2)年に徳川家の家臣だった初代戸塚平右衛門が創業した老舗酒蔵で、「体に入るものに、偽りのあるものを使ってはならない」という理念のもと、地元産の高品質な原料にこだわった酒造りをしています。
地元に戻りまず手掛けたのはアメリカ西海岸での販路開拓。酒販店やスーパーをまわり直接交渉するなど、商社の方の手も借りながら販路拡大を行い、今日まで20年以上途切れることなく続いています。
16代目蔵元として社長に就任したのは40歳のとき。代々続く造り酒屋の矜持を守りながら、原料となる芋や米の自家栽培、風穴貯蔵など新たな味の追求、クラフトジンの製造など、新しいことにも果敢にチャレンジし、時代に合わせた酒の在り方を模索し続けてきました。
左から、寒竹(清酒)、しろがっぱ(焼酎)、未来ヅクリ2021(クラフトジン)、寒竹Miyota(特別純米酒)、寒竹軽井沢(純米大吟醸)
「軽井沢ウイスキー」には20年以上温めてきた強い思いがあります。そもそも洋酒に興味を持ったのは東京日本橋での修業時代。海外部門の洋酒営業でバー巡りをしたときに熟成酒の面白さを知りました。その後、戸塚酒造で栗焼酎に挑戦した際、味をまろやかにする策として樽貯蔵を思いつき、御代田のメルシャン軽井沢蒸留所から樽を譲っていただいたという出来事も。「軽井沢でウイスキーを作るなら」と、蒸留所立ち上げ前から、気候や土壌を知るため軽井沢での米や芋の栽培に汗を流し、多くの方と知り合いました。1年、また1年と築き上げた信頼関係が蒸留所づくりの大きな推進力となり、いよいよ始動のときを迎えます。
軽井沢ウイスキー開発部門を統括するのは、かつてメルシャン軽井沢蒸留所でモルト・マスターとして活躍し、国産初モルトウイスキーを手掛けた内堀修省さんと、同じくメルシャンでウイスキー・ディスティラーを務めた中里美行さん。実は栗焼酎で樽をいただいたとき、メルシャンで担当したのが中里さんだったという不思議な縁も。
かつて御代田町に世界的な国産ウイスキーを造るメルシャン軽井沢蒸留所があったように、軽井沢には高品質なウイスキーを造る条件が整っています。地の水、地の風、地元の原料を活かし、軽井沢ウイスキーならではの味わいを追求していきます。
一般的にウイスキーは蒸留してから商品になるまでバーボン樽でも約6年、評価されるまでには10年近くの年月を要します。今回はシェリー樽を使用してじっくり熟成させるので少し時間がかかります。数十年後に、「なかなか手に入らないけれど、生きている間に一度は飲んでみたい」と言われる価値の高い味わいになるように頑張っていきたいと思っています。
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とつか しげる 1974年佐久市生まれ 東京農業短期大学醸造学科卒業 2014年戸塚酒造株式会社16代蔵元に就任 2019年軽井沢ウイスキー株式会社を設立
老舗蔵元の後継者として
4人兄弟の3番目、江戸時代初頭から続く老舗蔵元の長男として生まれました。典型的な昭和の子どもで、野球とサッカーが好きな活発な子どもでした。幼い頃から蔵人と接する機会が多く、「造り」が当たり前の環境の中で育ったため、高校卒業後は醸造学科のある短期大学に進学。卒業後は東京日本橋にある酒類卸問屋で5年程修業し、戸塚酒造がアメリカへ輸出事業を展開するタイミングで地元に戻りました。
老舗酒蔵の16代目蔵元
新たな文化発信への思いをのせて、この夏から蒸留開始予定の「軽井沢ウイスキー」
戸塚酒造は1653(承応2)年に徳川家の家臣だった初代戸塚平右衛門が創業した老舗酒蔵で、「体に入るものに、偽りのあるものを使ってはならない」という理念のもと、地元産の高品質な原料にこだわった酒造りをしています。
地元に戻りまず手掛けたのはアメリカ西海岸での販路開拓。酒販店やスーパーをまわり直接交渉するなど、商社の方の手も借りながら販路拡大を行い、今日まで20年以上途切れることなく続いています。
16代目蔵元として社長に就任したのは40歳のとき。代々続く造り酒屋の矜持を守りながら、原料となる芋や米の自家栽培、風穴貯蔵など新たな味の追求、クラフトジンの製造など、新しいことにも果敢にチャレンジし、時代に合わせた酒の在り方を模索し続けてきました。
軽井沢ならではの味わい
左から、寒竹(清酒)、しろがっぱ(焼酎)、未来ヅクリ2021(クラフトジン)、寒竹Miyota(特別純米酒)、寒竹軽井沢(純米大吟醸)
「軽井沢ウイスキー」には20年以上温めてきた強い思いがあります。そもそも洋酒に興味を持ったのは東京日本橋での修業時代。海外部門の洋酒営業でバー巡りをしたときに熟成酒の面白さを知りました。その後、戸塚酒造で栗焼酎に挑戦した際、味をまろやかにする策として樽貯蔵を思いつき、御代田のメルシャン軽井沢蒸留所から樽を譲っていただいたという出来事も。「軽井沢でウイスキーを作るなら」と、蒸留所立ち上げ前から、気候や土壌を知るため軽井沢での米や芋の栽培に汗を流し、多くの方と知り合いました。1年、また1年と築き上げた信頼関係が蒸留所づくりの大きな推進力となり、いよいよ始動のときを迎えます。
軽井沢ウイスキー開発部門を統括するのは、かつてメルシャン軽井沢蒸留所でモルト・マスターとして活躍し、国産初モルトウイスキーを手掛けた内堀修省さんと、同じくメルシャンでウイスキー・ディスティラーを務めた中里美行さん。実は栗焼酎で樽をいただいたとき、メルシャンで担当したのが中里さんだったという不思議な縁も。
かつて御代田町に世界的な国産ウイスキーを造るメルシャン軽井沢蒸留所があったように、軽井沢には高品質なウイスキーを造る条件が整っています。地の水、地の風、地元の原料を活かし、軽井沢ウイスキーならではの味わいを追求していきます。
一般的にウイスキーは蒸留してから商品になるまでバーボン樽でも約6年、評価されるまでには10年近くの年月を要します。今回はシェリー樽を使用してじっくり熟成させるので少し時間がかかります。数十年後に、「なかなか手に入らないけれど、生きている間に一度は飲んでみたい」と言われる価値の高い味わいになるように頑張っていきたいと思っています。